<< 前のエントリ | メイン | 次のエントリ >>
2006 年12 月29 日

今年1年を振り返って パート1

今年1年は自分の人生の中でおそらくは一番厳しい年でした。
さまざまな別れ、自分の無力さ、泣くに泣けないという初めての経験。
自分なりに投げ出さないで精一杯の事はやったんだという気持ちとはうらはらに
時間を置いて見えてくる出来事も今になってたくさんよみがえってきました。
楽しい出来事10大ニュースといきたいところだけれども
今年はあえて自分の出来事として綴っていきましょう。

年が明けてすぐに祖父の訃報が飛び込んできました。
96歳という高齢だったのだけれども、思い出は数限りなくよみがえります。
この葬儀に、一族すべてが輪島に集まる事となりました。
何年ぶりかの再会も含め、祖父が呼び集めてくれたんだなと語り合いました。

2月に弟が亡くなりました。
ささやかな会社を経営していて、この数年は仕事一筋に頑張ってきました。
根は明るく気のいい男だけれども経営者としては力不足でした。
真剣に仕事を継続できるように私も年末から一緒に経営や仕事を手伝っていました。
ようやく道が見え始めた頃に体調の悪さと忙しさ、そしてストレスで身体が悲鳴を上げました。
急性心筋梗塞
病院へ入って48時間後に40歳の生涯を終えました。
太く短く、彼なりに一所懸命生きてきました。
その人生を褒めてあげたくて葬儀はすべて自分で仕切りました。
この後さまざまな後始末に時間を費やしました。

弟の四十九日の法事を済ませ、後始末のメドが見えた頃に母が病に倒れました。
膵臓がんの末期
比較的症状が出にくいタイプであったため発見された時はすでに末期で
余命1〜3ヶ月と告げられました。
症状が出にくいとはいえ、今年に入ってからの母の衰弱は
心の片隅で気になっていました。
ただ、強いストレスもあっただろうし、
息子の死は私の想像以上に答えているはずです。
ちょっとした異常を見逃していたことは否めません。
病名は告げずに看病をしていました。
告知をするかしないか、最期の最期まで私は迷いました。
今思い起こすと、やはり告知をして母の言葉をきちんとききたかった。
そう思う気持ちが日に日に強くなってきます。
けれどもどちらが正しかったかということの答えは出せないでしょう。

母の病気と同じくして、母の兄、つまり叔父も癌で闘病生活を送っていました。
お互いに見舞うことなく叔父は、10月に亡くなりました。
小さな頃に輪島へ遊びにいくと叔父はいつも怖そうにいました。
威厳のある厳しい人でしたが、時折見せるやさしさが叔父の本当の姿と知ったのは
大人になってからでした。

1年があっという間でした。
今どうして、弟が。。。母が。。。
この世にいないのかということの現実感がありません。
寂しい、悲しいというよりも、どうしていないのだろう。。。って
そう思うことのほうが多いです。

大切な人を失うと言う事は悲しみ辛さ寂しさよりも、疑問点になってしまうんだと気がつきました。
そばにいて当たり前
実家に帰れば親がいて当たり前
兄弟は仲が良かろうが悪かろうが、行き来があろうがなかろうがいて当たり前。
死んでいなくなる事なんで想像すらしません。

とりわけ母の存在は大きなものです。
私は母とはけして気の合う方ではありませんでした(笑)
母はとても私に気を使っていたし、私はいつも母になんやかんやと意見をしていました。
それでも失ってしまうと知った瞬間から私の気持ちが娘になりました。
お母さんという気持ちが急に強くなりました。
頼りたい、甘えたい気持ちがたくさん出てきました。
最期に抱きしめた瞬間私は子供の頃に帰っていたような気がします。

辛い別れの年でしたが、それによって自分も多くの経験をしました。
いざとなったらなんでもできる自分なんだと自我自賛。
母と弟が私を一段と強くしてくれたような気がします(笑)

先日、数年前に亡くなった父と母が夢に出てきました。
仲良く車に乗ってやってきました。
2人で手を振っていました(* ̄- ̄*)バイバイって
私の願いが夢の中にでてきたかどうかはともかくも、それで随分気持ちが落ち着きました。
弟はまだ出てきません。
きっと私が怒りまくっていると思っているのでしょう。
振り返ればあっという間の1年でした。
長い人生の中にこんな1年も起こり得るのですね。

投稿者:ひめ
at 11 :01| 日記 | コメント(0 )

◆この記事へのコメント:

※必須