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2005 年11 月16 日

他人の幸せでは殆ど喜べない事に気付いた。

 最近は何時にも増して心が乾燥している感じがする。より現実的で、より合理的で、普段と比較し損得の計算を前提に置いた行動を選択している。 これは生きていく上で最も無駄の無い選択であると思われる。
 但し、それが自分の幸福に直結するとは限らない。無論、その逆も又然りではあるが。しかしながら刺激を選択する事が以前に増して激減している。よく分からないが精神的に疲労している感じだ。ストレスではなく、それ以外の不安定な何かが要因となっている様に思われる。
 一般に物理的、化学的な全ての現象は安定する方向へと流動していく。人間における行動の原理も当然それに従うであろう。同様に私も安定を求めているのだと思われる。何も変化せず、それといった幸、不幸も無い日常に不信感を抱いているのだ。逆説的だが、安定した日常が不安なのだ。これは刺激を求めている、という事になるのだろうか。
 答えは否であろう。前述したように私は刺激を求める不安定な方向へと進む事を拒絶している。解答は「解放されたい」という願望に近いものだろう。以前記した通りである。その感情が日々膨張していたのだろう。そして最近になり、それが私の心を圧迫してきているのだろうか。
 それなりに安定した日常、は不安定な日常より性質が悪い。「終わりが分かってしまう」為、常にそれに備えてしまうのだ。一旦認知してしまった今、それを気にせずに今を楽しんで生きる事が難しくなってくる。知らなければ良い事もあるのだ。目に見えない微生物の存在の知識を入手し、それを応用してしまう事で、周囲の見えない微生物を感じ取り、嫌悪感を感じてしまう事と同様である。
 それを忘れてしまうくらいの出来事が常に起こる、或いは、それよりも絶対的に安心できる状態を欲してしまったのだ。単なる甘えであり、身勝手な要求であるのは理解している。但し、それを克服できないくらい弱体化してしまっている。自虐的に笑い飛ばす事も可能だが、それは後により大きな負傷を残すだけで悪質な一時的治療である。
 愚かだ。憲法ですら証明されている様に、自由は自らで勝ち取り、維持しなければならない矛盾を孕んでいるのだ。それは既に自由では無く、結果として自由は「一時的な納得」であるのだ。また、解放は誰かの救助を待つ事で起こり得るのは類稀な事であり、蜂起しなければ始まらないというのは常識である。俺はどうやら乳児と同程度の行動力、いや、それ以下である。誰かに救助を願う事すらしないのだ。最低の行動力だ。
 まぁ救助を望み願う事で、それが達成される可能性は皆無であるのだけれども。

投稿者:未定at 19 :06| 戯言 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

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