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2005 年12 月21 日

医療心理レポート課題(3)1

恒例の無意味なアップロード。

3.死生感について

 私の祖父は既に父方、母方共に亡くなっている。そして私はその死に対し、あまり衝動を受けなかった。日常で何も問題無くそこに存在していたはずの人間が、活動を停止し、灰になり、墓に入る。そして存在していたという記憶も時間と共に薄れていく。その事は私にとってごく自然に受け容れられる事だった。
 私は死後の世界の存在を信用していない。それは幻想に過ぎない。人間は生まれながらにして不平等であり、それを補佐する為に死後の世界という考え方が産生されたのだと思っている。生まれながらの不平等感を補うには、宗教的な考え方が必要になってくる。「努力すれば神や仏といった存在が救済を下す」という非現実的な考えも、不平等感を補うには十分な考え方だったのだろう。
 死後、脳は活動を停止している為、思考する事は不可能である。それこそ何も無い世界に行くのだと思われる。無論、それを救済と呼ぶならば死後の脳の停止状態は神や仏の代用品として成立するのだが。
 さて、死によって、本人の意志、そして身体は完全に消滅される事になるのだが、その後に残るのは周囲に残された者達の意思である。彼らの意思がその死亡した人物の存在、アイデンティティを唯一保持するものだ。それらが消滅した際、本当にその人物はこの世界から抹消されるのだろう。
 ここで逆説的な話をしてみる。他人と接点がその人物の存在を証明する事になるならば、それが欠落している人物は、ある意味に於いて死亡しているとも言えるのではなかろうか。私達の存在は他人それぞれ個々の中にのみ証明されているのだ。死亡後に生きる者も居れば、生きながらにして死亡している者も居る。非常に興味深い状態である。
 私は祖父の身体がこの世界から消滅した際、何も心に響くものが無かった。今までの考え方から言えば、この事は、私の中では生前に既に祖父は死んでいたという事を示す。これは悲しい事なのだろうか、それとも素晴らしい対応なのだろうか、私には判別できない。
 私は他人の中に生きているのだろうか。そもそも生きている証明は何になるのだろうか。生が意味する物が分からなくなってきた為、ここからは私のお気に入りである絵本の「100万回生きたねこ」を中心に話を展開していこうと思う。

投稿者:未定at 18 :43| 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

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