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2005 年12 月31 日

昔のノートを見つけた2

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 自分を最も理解できるのは自分であり、しかし自分を客観的に理解しようと心掛けられる人は非常に少ない。そもそも客観的とは何を視点にした森羅万象の考え方であろうか。客観的とは自分の考え得る最も平均的だと思われる体験+本能に基づいた計算的思考から発生する位置、即ち自我の中に創造された個の、又は集合の他人における意識の推定から分析される結果の、という形容。結局は自己理解は外的影響を推定される感情の変数に代入したものであり、その計算結果は全くとして同じ環境を持ち得ない他人と等しく成り立つものではない。では主観的に考えるとはどういう事だろうか。主観的、要は自分の特徴を自己の視点から分析した結果である。だが、ここで重要なのは、己の結果から得られる判断、またはその計算のプロセスである。仮にここに人物Aが存在するとする。人物Aは自分をX的な人間であるとする。本当にそのX的、という性格は正しいのだろうか。X的、それはある特定の何か平均的だと思われること、要は外的影響を、感情の方程式の変数を、代入したものに相違ない。多分、その違いは理想という自己満足を得るための多少の改ざんを自我の中に割合として客観的の時に比べ多く創造させている点であろう。兎にも角にも個は群れの中に位置して初めてその価値が付加される。従って価値の為に生きようとする人間は、やはり群れの中でしか生存できない。但し、その郡中には自己の価値を高めるような劣等的存在が不可欠である、それを含まない場合はその群は意味をなさない。よって弱なる人間は互いに郡を作成し価値を尊重し合う事により人間である事を保ち続けている。だから本当に強い人間と異常に弱い人間はある程度の自尊心を捨てて群れの中に侵入しようとするが、大抵の場合は所謂いじめが発生してしまい、結局郡外に出されてしまう。互いに尊敬し合う生物が人間、というわけだ。逆に言えば、相手を尊敬できない人間は人間らしくない、ということになる。全てに対する優越感、又は嫌忌感が周囲との隔絶を自然に行おうとする、これは思春期によく見られる傾向の心理だが、やがて、相手の為に自分が謙譲する必要がある事に気付き、仕方なく自分の誇り高い自尊心を闇の中に放り込むしかなくなるのだ。別のものは世界の中心に立ち続け、少しずつの尊敬を入手することで人間を捨てずにいるか、それとも人間をやめるか。人間をやめた場合、最も人間らしい部分、会話、の能力が衰え始め人を嫌うようになり欲のみを追求する最も動物らしいといえる人間に進化を遂げる。個としての自己のみで生存できるような強力な知能や身体能力を得るであろうと考えられる。この究極生命体、第六次生命体はやがて劣等な人間を支配し、勿論、支配は非常にた易いものであろう、新たな時代がやって来る。

感想;
引き篭もり進化説に関してはなかなか興味深い考察をしているが、詰めが甘いし、論理展開が少し弱い部分もある。何より、当時の自分は暇人だったんだろうと思う。

投稿者:未定at 01 :02| 戯言 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

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