2005 年06 月25 日
振り返ってみて1
〜適応力が強すぎてしまった〜1を聞いたら12を識るような子供だったので、普段の生活の立ち振る舞いは十分(寧ろ超えていた)だった。だからそれを「自然にしていた」とも言えるし「故意にしていた」とも言える。ただ、それは大人達が求めていた「道徳的にそのように行動する」という意図から外れ、理由はともかく、そのように行動すれば周囲の大人は喜ぶ=自分の利益になるという事を理解して行動された事だった。これは他の子供よりも優れているという事をより強調する行為を認識していたという事であり、実際に当時は優等生だった。それは同年代の他人から見れば「卑怯な事」だったのだろう。ルールを熟知し、それから外れる事が無い様上手くやる事がこの扱いだ。酷い精神苦痛を受けたものだ。その後は同年代の他人の「ルール」が分かってくる。無論、他人の十二分にだ。その通りに行動すれば友人は増える。信頼される。誰の目から見てもプラスになる。ただ、そのルールを知らない者からの扱いはやはり異常だった。
〜自我が強くなってしまった〜
ある日、ルール通りに行動する事に疲れたのだろうか、飽きたのだろうか、それともそうしない事がよく見えたのだろうか、また別な事が原因だったのだろうか。少しづつ、自分のルールは崩壊していった。それは自分自身には意識できるだろうが、他人からは感知されない事だっただろうと思う。やがて奇異な目で見られる存在になる。ある者にとって非常に迷惑で、ある者にとっては非常に興味深い物だったのだろう。そもそもそれは間違いだ。何故なら元々それを識っていて行動していたのだから。まぁ他人が知らないのも至極当然だ。だが、納得いかなかった。結局、自分はルールに縛られていたのか、と。ルールに則れば自分の地位は安定する。だが、それは自我が許さなかった。自分は「ルール通りの人間」じゃない、それを「識っていて行動していた人間」なんだ、と。だが他人の目から見ればそんな事は関係ない。内部的な事など知る由もないのだ。与えられた情報が全てなのだから。自発的にそれを伝えたところで何の意味も持たない。それを知ったところで、結局は興味を持たれないから。自分からその事をもっと外に出せば結果は変わっていたのだろうか。だが、当時そのような事を理解するには幼すぎた。(そして現在、それを理解しても、行動するには老けすぎている。)理解する人物を待っていたが、そんな人は結局自分のストーリー上には居なかった。自分の存在意義に疑問を持つようになってしまった。
〜慣れてしまった〜
やがて、また「ルール通りの行動をする人間」になってしまう。自分の利益を重視するならば、その方が妥当だったからだろう。だが、今回は「明らかにルールを識っていた」のだろう。完全に精神が分かれてしまっていた。他人の前では完全な「ルールに則った」振る舞い。しかし、独りで居る時は全く別だった。(これは本来の自分だろうか、それとも「作られたもの」だったのだろうか、今でも分からない。)いや、シグナルは敢えて多重に暗号化されて発信されていたはずだ。では、自分が求める理解はそのようにしか得られなかったのだろうか。いや、違う。「知られたくなかった」のだ。多分利益を失うから、そして自我を否定されるのが怖かったから。
投稿者:未定at 15 :01| 戯言 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )