2020年5月4日
私の宗教観
私の宗教観
ーはじめにー
物心ついた時から、身近な宗教が醸し出す香りが豊かな環境に育ちました。それ故に、余り、宗教への偏見も無い代わりに、何故、この様に、多くの宗教が有るのであろうかと、疑問が生まれ、その事を考えならが、 現在に至ります。其の都度、自分に相応しい宗教を求めていた様に思います。その変遷を、一、出会い、二、流浪、三、宗教観、として書かせて頂きます。御笑読頂ければ幸いです。
ー宗教との出会いー
母方の実家には、内庭に、三体の祠が有り、毎朝、祖父は、呪文らしき 言葉を唱えながら、順番に、お詣りする時、その後について、歩く子供 でした。五歳頃でしょうか。この三体が、どの様なものであるか、詳し い事は知りません。ただ、祖父のお参りする姿と呪文らしき祈りが醸し 出す雰囲気に、何か、特別なモノを感じた様です。これが、最初の宗教 との出会いでした。
次に出会うのは、十歳頃から、父方の実家に住むことになりましたが、同居の叔母は、熱心なクリスチャンでした。日曜日には、叔母と教会に連れられ、賛美歌を歌ったり、イブの夜は、ロウソクの灯火の厳粛な雰囲気で祭事が行われ、叔母と共に、参加していました。
同時期、父方の祖父は、時々、分厚い仏教本を読んでおられ、毎朝、仏旗の前に座り、お経を読んでいる姿を覚えています。時々、一緒に、仏壇 に、お詣りしていた記憶が有ります。特に、記憶に有るのは、近くのお 坊さんについて、「あれほど、見事に、念仏される坊さんはおられ無い」 と感心されている、祖父の言葉でした。又、それを聞いてから、注意し て聞いた思い出が有りますが、成る程、「心に染み入る様な御念仏」と、
子供心に、感じたモノです。今でも、耳の奥に、覚えています。
ー宗教と流浪(其の1)ー
青年期に入っても、神社、仏閣、教会は、心落ち着く場所でした。だからと、宗教を勉強する若者でも有りません。この当時、ボンヤリと考 えていた事は、「如何にして、この人生を暮らそうか」でした。 その為、自分探しも有り、通学する県立丸岡高等学校の図書館の本、分野を問わず、乱読していました。案の定、受験勉強は疎かになり、浪人生 活二年の後、大学生活で「人生の目標を見定めた」後は、己の信ずる道 を、会社勤務十八年、自営業十八年、試行錯誤しながら、懸命に、暮ら した様です。その都度、巡り会う人々から、お世話になった事柄は、数えきれません。今、考えると、「自分に、相応しい宗教は何か」を流浪 していた期間と思えます。其処で、一、受験浪人二年、二、大学四年、三、社会人三十六年に分けて、書かせて頂きます。御笑読頂ければ幸いで す。
「受験浪人二年」
浪人生活は、金沢と京都で各一年しました。金沢では、心休まる場 所は、兼六公園で有り、公園内の図書館に通っていました。その他、下宿の近くの弓道場でした。この当時、宗教を求める心よりは、自然を散策すると、孤独は無く、心落ち着く様な若者でした。
さて、京都の浪人暮らしは、京都植物園、鴨川堤散歩、下宿から宝ヶ 池への散策ーー等、心休まる場所としていた様です。宗教施設としては、 下宿近くに、大徳寺大仙院の庭園に、度々、通いました。当時は、観光 客も見られず、庭園の庭を見ながら、昼寝が出来る程、静寂に包まれて いました。 当時の、宗教観と言えば、「全ての宗教は、人が自然と対峙した時 に、神仏の存在を感じる事柄で有るーそれ故に、多様な自然環境が有り、 多様な宗教は存在する。ーーーこの様な大まかな印象が、小生の宗教観 でした。
尚、大学生活、社会人については、宗教流浪として、ボチボチと書き綴っています。
ー宗教と流浪(其の二)ー
さて、漸く、「人生を如何にーー」の目的で入学した小生です。一応、 実家の跡取り、何処かの会社、何かの職業に付くのは、目に見えていま すので、一応、経済学科に、入学しましたが、授業は、真面目に、受け ましたが、落第し無い程度に、勉強していました。もっぱら、当初の目 的を考える為に、「哲学研究部」、通称「哲研」のクラブ活動がメイン の学生生活でした。
この部活において、終生の同学年の友達二人が出来ました。一人は、青森出身のK青年、もう一人は、同大学付属高校から大学へ来られたY青 年でした。当時の先輩には、在学六年の猛者をおられました。部員も、 男女二十名程と記憶しています。ミッション系大学なので、大らかな校風でも有り、K君は、「和尚さん」のニックネームで呼ばれる様に、仏教哲学に興味を持ち、菜食中心の食事と坐禅を日課にしていた位です。 又、小生は、近世浄瑠璃本を読んだ人間模様をテーマに、同大学の教会 講堂において、文化祭の哲研定例発表会で公演した事も有りました。
以上の様な、呑気な学生が経験した話題として、下記三件、御笑読頂け れば幸いです。
「日曜学校と幼子」
T大学の哲学教授にお会いする機会が有った時、「仏教、キリスト教、 どちらでも、日曜学校が有りますが、どの様な意味が有るのでしょうか」 と質問をされた時、答えられない小生達に、その教授は、「幼い子供達 に、宗教を理解する事は出来ないが、子供達が、成人して、何か、困難に直面した時、日曜学校で培った暮らしを思い出し、その困難に立ち 向かえる人となる効果がある」と「私は考える」と言われた事でした。 「成る程、無垢なる心には、宗教的な風土が大切」と感じた瞬間でもあ りました。
「思想家T氏との出会い」」
下宿していたアパートの住人のYさんの御誘いで、同じ下宿人のS大学 のN君と三人で、T先生と呼ばれる方の講演に参りました。お聞きした 内容は、当時の小生には、それ程、興味が持てる事柄でも無く、余り、 詳しい記憶も有りません。ただ、講演に参加された方々は、多くは、仕事帰りの人々で有り、T氏の話を熱心に聞かれている 様子が思い出されます。
さて、講演の帰り、Yさんの奢りで、江戸前寿 司で食べた寿司は、本当に、美味しい御馳走でした。四年間の学生生活 で、最初で、最後の美味しい思い出でした。今、考えると、小生達の学生二人は、 何、の苦労も知らない、未だ、花より団子の若者で有った様です。 この当時、T先生が、小生の人生に影響を及ぼすとは、露程も思わずにーーー。
「新興宗教との出会い」
東京の下宿、最初、目黒駅下車数分、白金台地区の木造アパートに住 んでいた頃の話です。当時、友人のN君は、戸越銀座に下宿していました頃です。某日、慌てた様子で、暫く、同居させてくれないかと、助け を求めてきました。訳を聞くと、どうも興味本位で入会した新興宗教の S学会より退会する時のトラブル有り、信者に追いかけられている様 子でした。 ではと、一ヶ月ばかり、同居生活していましたが、信者の繋がりから、 小生のアパートを探し、遂に、数人の若者の信者が、布教に訪れる様に なりました。
当時のS学会は先鋭的な布教時代でした。「学生には学生」と考えたのか、毎夕、二時間程、大学生二人、高校生一人が訪れました。
彼等は、正座をして、彼等の主張をする事、数日に、及びました。其処 で、小生達は、彼等の話を聞く事に努めました。ただ、小生達は、喉が 渇けば、喉を潤し、柱に背もたれ、胡座で、長期戦に臨みました。こちらからは、一切の議論をする事はしませんでした。
何故ならば、彼等は、何かに、憑かれている様な話し方でしたから。
長丁場となり、時々、メンバーが替わりました。遂に、最後の日が来ました。
正座している学生、足が痛いのか、もぞもぞしたので、痛いならば、足 を崩したらと勧めました。そして、遂に、学生の一人が、「これだけ話 しても、判らないのは、貴方達は馬鹿か」と言われました。
其処で、穏やかな口調で、「馬鹿と思うのは、貴方の勝手です。馬鹿と話ても、貴方達の時 間の無駄でしょう。お帰り下さい。別に、こちらが、お願いした対話で は無いのですから」と伝えて、この件は終わりました。
ー宗教と流浪(其の3)ー
二十五歳で大学を卒業、会社員十八年、自営業十八年、合計三十六年を経て、六十歳 頃迄、就労による収入を得ました。この期間は、日本経済のスタートか ら目覚ましい経済成長へと向かい、その頂点を極め、遂には、衰退へと 向かおうとする激動の36年でした。この期間に、経験した話題を、箇条 書きに、書かせて頂きます。御笑読頂ければ幸いです。
「T先生の中心思想に触れる」
さて、無事、就職をしましたが、未だ、学生気分は、抜けず、又、学生 時代にお会いした思想家でも有るT先生との御縁もあり、会社休みの日 は、京都の先生の活動拠点で有るC学園に、時々、訪問していました。 その御縁を、掻い摘んでお話しします。
大学四年の夏休み、 帰郷の折、中学生時代の旧友から電話が有り、突然、麻雀しないかとの お誘いが有りました。本来、彼は、中学を卒業して、商社に入り、暫く して、独立してブローカーをしていると聞いていたので、彼が自宅にい るのが、不思議、「どうしたの」と聞くと、親会社の倒産の煽りで、彼の商社も、パンクして、自宅に、潜り込んでいるとの話でした。
其処で、麻雀なんかしている場合か、家に来ないかと話すと、彼も、わかったーと、直ぐ、来宅した事が有りました。
事情を聞いて、「 ほとぼりを覚ますために、知り合いの施設に行かないか、仕事は、 施設内の手伝いをすれば、食事と住処は確保出来る処が有る、ただ、収 入は無い。どうだ」と提案すると、「了解」との事。
善は急げと、二人とも、血気な若者です。明くる日、京都のT学 園へ、彼を伴ない訪問して、学園のN事務長に、直談判して、事情を話 した結果、事務長は、小生の話と彼を見て、二つ返事、「受け入れる」と了解 してくれました。以上が、ご縁の始まりでした。
これ以降、友人を預けた手前、時々、彼の様子を伺う事とC学園の著名 人を招待する講演、T先生の「中心思想」の講演を聞く事が楽しみで、 一泊二日の旅を楽しんでいた時期でも有りました。
「母の心労」
この様な時期、小生の母親、親戚一同、実は、陰ながら、小生が、T先 生に心酔する余り、この団体に入るのではーー」と、心配したそ うです。これは、後から、細君に聞いた事ですが。母と母の実姉二人は、 小生に内緒で、C学園の講演を聞きに訪問した事も有ると聞きました。
「T先生の配慮でS先生と出会う」
この様なある日、音楽教育において、高明なS先生の講演を聞いた時、 T先生は、西畠君、京都駅に帰るのならば、S先生の送迎車に同乗しな さい。と言われて、ご一緒した事が有ります。車の中で、小生は、ズバ リ、音楽教育の基本は、何ですかと、お聞きしましたら、思い掛けない 答えが返って来ました。
それは、「誰にでも、生まれた地方の言葉訛り が有ります。実は、これを音符にすると、それは大変複雑な作業となり ます。しかし、生まれた子供は、百人が百人、それを習得する事が出来 ます。この事は、誰にでも、音楽を聴き分ける才能が潜在的に有る事で す。僕は、其れを信じて、音楽教育をしています。」と言われました。 この言葉は、物事考える上で、後に、大変に参考になる言葉となりまし た。
もし、T先生の配慮が無ければ、聞けない事です。今でも、感謝し ています。
「先生の言葉 」
親達が心配している事を、何となく、感じていましたが、T先 生の生き方に、憧れを感じていた事も事実です。この様な時、先生に、 その事をお聞きしましたら、もし、僕の様な事をしたいと望むならば、「君 の望む職業に付き、家庭を持ち、親孝行をして後、もし、君に、その情 熱が有るのならば、その時代に相応しい事柄で、君が出来ると思う事を しなさい。」と言われました。それに付け加えて、「ただ、心身が衰え ていては、それも出来ないから、余力のある間でないと」と、笑顔で言 われました。
ーーー次回は、宗教と流浪(其の4)、会社生活に於ける事柄です。
ー宗教と流浪(其の4)ー
「子宝を神仏に祈る事」
この頃、小生達夫婦の悩みは、結婚四年目、夫婦生活は、順調なのに、子供 が授から無い事でした。実は、両親も同様、六年間子供に恵まれず、藤 井寺市の藤井寺に子宝祈祷に行き、漸く、小生が生まれた事を知らされました。此処で、母に勧められ、会社の有給を取り、藤井寺で子宝祈祷 をスタートに、一週間程の旅に出ました。
旅行から帰り、間も無く、細君は、少し、下血しました。急遽、産婦人科の診察を受けた処、妊娠の兆候が有るが、残念ながら、堕胎せざるを得な
い状態でした。又、どちらかと言えば、子宮が丈夫ではなく、今後、妊娠しても、細心の注意が必要と言われました。其れから、一年後、二回目の妊娠、長男が授かり、二年後には、長女も授かりました。
「早朝、泰澄寺への参拝する」
さて、会社勤務二年目、新会社設立準備の為、管理事務所に出向した頃です。時々、三十八社の泰澄寺へ、早朝早く、お参りに行き、文殊山から 昇る「日の出」を拝みました。 朝日を拝みながら、若き頃の泰澄大師が、この寺から、文殊山の頂上に 有る祠迄、馬で日参した逸話に、思いを馳せていた様です。 お陰で、未知数の仕事に対する不安、孤独感を乗り越えられた様に
思います。ーーー次回は、宗教と流浪(其の5)に続きます。
ー宗教と流浪(其の5)ー
「ルーチンの大切さ」
勤務先の社長さんは、熱心な稲荷信仰の信者でした。多忙な仕事の日々、 体調が悪くなると、京都の伏見稲荷神社に修養に行かれました。伏見か ら戻られると、?剌とした姿で、会社で仕事をされていました。 以前にも書きましたが、母の実父も信仰の深い方でした。庭には、お稲 荷さんの祠も有り、社長さんに、親しみ覚えていました。 社長さんは、会社の創業者で有り、目の前の利益よりも、将来性に投資 するタイプの社長さんでした。企画タイプの小生は、随分、助けられた 様に思います。
社長さんは、当初、言われた様に、将来に布石打つ用件を指示されたり、他業界の人々との会食が有ると、一緒に、参加させて頂きました。
そのお陰で、随分、見聞を広める事が出来、感謝しています。 例えば、ドイツのメガネ関係の工場長が、来県された時、組合長でも有 る社長に勧められて、会食に参加させて頂きました。その折、印象に残っ ているのは、世界の何処に、商用旅行をしても、自分には、決めている 事が有ります。それは、工場を不在にするには、「一週間限度とする」 とーーー。
その他、多くの経験から、良き先輩達は、良きルーチンを持たれている 人々でも有る事を知りました。会話の中で、それらの一端を教えて頂いた事も有ります。そして、そのルーチンの源は、個々の「宗教観、人生 観」と深く関わっている印象を受けました。
ーーーー次は、宗教と流浪(其の6) ーーー
ー宗教と流浪(6)ー
「家庭と宗教」
小生が、三十代から五十代迄は、当時の男性同様、仕事人間でした。子供は、母と妻に任せ、偶に、日曜日に、家族と遊び、年一回、家族旅行 したくらいです。母と妻君のお陰で、長男、長女、スクスク育ち、現在 は、二人とも結婚、其々、子は授かり、県外で、其々、平和な暮らしを 営んでいます。
当時、母は、仏壇にお参りする時、長男、長女も手を合わせていた様で す。母と妻の仲も良く、円満な家庭でした。今では、妻が、仏壇の御世 話をしています。現在、子供達が帰郷すると、先ず、孫共々、仏壇に、 お参りしています。我が家では、仏縁は、連綿と続いています。
「叔母と十字架」
入社して十年目頃は、日本の経済成長の波に、勤務先のM社も、 国内外に、販売先を持ち、自社の国内展示会は4ヶ所、欧州眼鏡展示会 に3カ所、毎年参加する会社に成長していました。 この当時の思い出です。
小生は商品企画をしており、二年に一回ペースで、春になると、ヨーロッ パ(ドイツ、フランス、イタリア)開催の眼鏡業界展示会へ視察と文化学習をしていました。その様な折、何回目かの欧州訪問の時、観光を兼 ねて、バチカン市国へ参りました。 其の時、何の迷いも無く、銀の十字架、
叔母の土産に手に入れていました。別に、叔母に頼まれていた訳でも無く、今、考えても、不思議な経 験です。
当時、叔母は再婚され、綾部市の田舎に住んでいました。久々に、来 宅された時、十字架をプレゼントしました。叔母は、思い掛けない程、 喜んでいました。今でも、当時の叔母の喜ぶ様子、思い出されます。
当時、叔母から、年に数回、キリスト教布教の小冊子が贈られており、 閉口した覚えが有ります。小生の母などは、入信するのでjは無いかと危 惧しました。何故ならば、我が家は、浄土真宗門徒で有りましたので、 その様な事があれば、母は、一大事と考えでいた様です。
しかし、小生は、祖父より、家の宗教で有る浄土真宗門徒を継ぐ事は、 遺言により伝えられており、それを裏切る事など、思いもよらぬ事でし たから、母には、心配は要らないと話した程です。
因みに、現在、国内外、何処に、旅をしようと、その土地の宗教施設が 有りますと、必ず、お参りする事にしています。その気持ちは、その土 地の神々に挨拶をする思いでおります。
ーーー次回は、ー宗教と流浪ー(その7)です。ーーー
ー宗教と流浪(其の7)ー
宗教と流浪は、ー其の1ーからスタートしましたが、今回のー 其の8ー迄です。今回は、この期間に、経験した話題から、御参考にな ればと、「親友の兄弟の思い出」、「宗教とのご縁」ー等です。御笑 読頂ければ幸いです。
「社会生活と新興宗教」」
友人N君は、マンションのオーナーですが、知人に部屋を貸しました が、実質の用途は、T新興宗教の集会場でした。当時、他県に置いて、 問題を起こした宗教でした。暫くすると、部屋を借りているT宗教の方 から、正月の集まりに、舞披露の依頼が有ったそうです。
この点について、N君から相談を受けました。そこで「君は知人に部屋 を貸しているだけ。又、もし、参加したら、君は、ご近所からT教に入 信したと思われる、丁寧に、お断りしなさい」と話しました。 彼は、参加は思い留まりました。
もし、参加していれば、信望の厚いN 君が参加したと、布教の宣伝に使われたと、小生は推察します。
「新興宗教と知人T社長」
当時、顧問をさせて頂いていたY社長の奥様から「最近、Yさんは、M新興宗教に入信してから、毎月数十万単位で、M教への出費が 有り、又、社員に入信を勧める状況を心配されて、どうにかして欲しい」と相談されました。
Yさんに、お聞きすると、「教祖の方は素晴らしい方で、そのM教の集まりには、皇族も来られるーー等」と話しが有りました。小生は、この 話に不審を感じて、下記二つの調査をして、Yさんに、報告しました 処、退会されました。奥様も、社員の方も、安堵された様です。
調査(其の一)
宮内庁の宮務課に、「M殿下が、Yさんが出席された日時に は、どの様な集会に出席されましたか」と、お聞きしました。その回答 は、全国に知られた慈善団体で有り、殿下が名誉総裁をされている集ま りでした。
これより、判明した事は、この慈善団体に、参加された関係者と、同行 して、Y社長は参加された様です。ただ、Y社長は、M教の集会と信じて 参加していた様です。実に、巧妙な方法で、小生も驚きました。
調査(其のニ)
M教は、既存仏教団体の一派とも、Y社長からお聞きしていま したので、京都の知人に、調査依頼しました。
その結果、「M教は、この既存仏教団体の一派で有るとの触れ込みで、 信者を集めている」との迷惑行為が有り、このM教には、注意する様に と、既存仏教団体として、通達を出した」と連絡がありました。
「親友の弟さんの話」
彼は、地元の国立大学を卒業後、紆余曲折の職業を経験して、最終は、 占い師の養成所学校に入学しましたが、卒業と同時に、その学校の教師 になられました。小生と付き合う頃は、「占い本」の編集者にもなられていました。それ以来、毎年「占い本」が送られて来ました。
又、時々、お会いすると、適切な指摘も頂き、我ら夫婦の暮らしの指針 の助けになりました。この御兄弟とは、永年のお付き合いでした。本当 に、お世話になりました。現在は、他界されています。ご冥福を祈るば かりです。
「多彩な宗教とのご縁」
我家は浄土真宗門徒です。友人の宗教を聞けば、何故か、ご家庭は日蓮宗、親族の多くは、浄土真宗ですが、真言宗、禅宗、キリスト教、天台宗、天理教ーーと、バラエ ティに富んでいます。又、最近では、臨済宗、浄土真宗の仏門の方々と お知り合いになりました。その都度、多くの人々に、多くを学ばせて頂 いています。
次回は、ー宗教と齟齬理解(其の8) ーとして、60歳からー現状迄を書か せて頂きます。
ー私の宗教観ー
約十七年前、60歳になり、浄土真宗門徒として、法名「釈慧実」を頂き、 「三世の旅」の準備は出来た様に思います。今後も、現世においては、 多様な宗教観を持たれる人々と触れ合いながら、十人十色の人々が住み 易い社会となる様に、人間社会に存在する齟齬理解を共有しつつ、人生 を暮らしたいと思う、この頃です。
今回、「宗教との出会い」「宗教と流浪」と続きましたが、最終章とし て、「私の宗教観」として、一応、下記、三項目を予定しています。さ て、どうなるかわかりませんが。御笑読頂ければ幸いです。
「法名を頂く、私の気持ちとは」、「何故、多様な宗教が有るのか」、「人生を豊かにする宗教観とは」。
「法名を頂く、私の気持ちとは」
六十歳になり、西本願寺へ法名頂きに参りましたが、その動機について、 少し、書かせて頂きます。因に、法名「釈慧実」です。
(五十歳頃でしょうか。碑文「等觀三界空無所有」を読み、「この世 に生まれ、人として生かされ、一生を終えて、来世に旅する」、己を感 じました。
その後、間もなく、「現世で有るが、己れ自身、時空を飛翔してい る」と体感する事が、時々、有りました。 この体感は、表現は難しいのですが、敢えて、書けば、「身の回りの風 景、この地球さえ、意識から消え失せて、ただ、己が、宇宙を飛翔して いる感覚」でしょうか。この体感をする、何回目の時、実に、自然に、既に、三世を旅しているならば、法名を頂いても、早くはな いと考えて、六十歳の時、頂きました。
ーーーー次回へーーー
ー宗教観(2)ー
はじめに:?哲学、科学、宗教の違いを端的な言葉で表せば、 人は、考えを深める時、哲学が生まれる。 人は、考察と文物を駆使する時、科学が生まれる。 人は、各自の心身を駆使して、世界を理解する時、宗教が生まれる。
以上を基本として、「何故、多様な宗教があるのか」、「世界宗教地図 を眺めて」の思いを書かせて頂きます。御笑読頂ければ幸いです。
「何故、多様な宗教が有るのか」
人間は、本来、十人十色で有り、その結果、各自の宗教観が存在します。
では、何故、人は宗教観を必要とするのでしょうか。その根源は、「不 明」への「不安、畏敬、恐れ、等」と思います。それ故に、世界的に有 名な宗教は、社会の変化と共に、常に、人々の暮らしに寄り添う宗教と して、後世に受け継がれていると思います。
「世界宗教地図を眺めて」
不明への理解が宗教で有り、個人の認識が基本ならば、当然、新しい宗 教観が生まれる可能性が有ります。その証拠に、大小多数の宗教が世界
に存在すると思われます。それ故に、宗教地図も、刻々と変化している と思われます。
世界宗教地図見ると、無宗教の存在も地図に表示されています。
私見ですが、「無宗教派の人々は、各自の心身で感じる不明な事柄が有 れば、宗教的理解では無く、個々の理解をされる事で、安心立命をされ ておられると感じます。
歴史を見ても、異なる宗教間の勢力争い、宗教と無宗教の論争が見られ ますが、この事で、少し、書かせて頂きます。
宗教認める人々も、認めない人々も、どちらが正しいか、他者と論議す る程、愚かな事は有りません。 何故なら、十人十色の人々が、森羅万象を理解する術の一つが、其々の 宗教で有り、無宗教派なのですから、住み良い社会願う点で合意するな らば、それで、十分と思いますから。
別の表現をすれば、宗教は、「不明を理解し、各自の人生に、安心もた らす」事が基本と思います。無宗教派も、各自の「不明」を、其々に、 納得されて、安心立命を持たれる人々と思いますから。
参考、ウエブ上では、多く宗教地図を検索されました、その一つを添付 します。御覧下さい。
ーーー次回へーーー
ー宗教観(3)ー
「最後に」
宗教に関して、誰からも、何故、宗教が生まれたのか、又、新興宗教が 生まれるのか、この事に関して、教えられた事は有りません。其処で、 私見ですが、出来うる限り、正直に、己の宗教観を披露する事も、他の 方の「考えを深める」一助とも、巷で散見する、宗教被害防止になれば と、一連のレポートしました。
今回は、全宗教の基本と考えること、少し、小生の思いを 書かせて頂きました。御笑読頂ければ幸いです。
「宗教とは」
再度、小生の私見「宗教とは」を記述します。
[ 哲学、科学では理解出来ない「不明」と対峙した時、人々は、森羅万 象への、畏敬の念が生まれ、各自の宗教観となり、心身の安心となる。]
以上ですが、、よくよく、考えた思いを、三方面から書かせて頂きます。
(其の一)
人間社会では、社会的地位、職業、貧富、性別ーーと区別が有り、否応 なく、何処かの一員になりますが、 宗教の世界では、(各自の心身)と(森羅万象の世界)の関係、具体的に言 えば、(信者一人)と(信仰する神仏)との、極めて、個人的な関係と申せ ましょう。 小生は、どの様な宗教であろうと、これが基本と思います。
(其のニ)
具体的に説明すれば、 現実社会の宗教活動は、人間社会の営みですから、其々、信者、宗教家、 教祖ーーと立場は異なりますが、 「信仰の世界」では、誰しもが、神仏に対する同胞で有り、信者で有る と言えます。
(其の三)
:日の出に、手を合わせて、小生が「南無阿弥陀仏」と念仏し、同じ、日 の出を見て、他の人は、「ーーー」と祈られる時、お互いの宗教は違っ ても、宗教の信者で有り、森羅万象の神仏との関係です。
同時に、各自が、どの様な気持ちいるか、日の出を、如何に見ているか、 実は、お互い、他人の心情を、知る事は出来ないのです。 何故ならば、各自の宗教観も違えば、同じ宗派であろうと、各自の心身 は、同じでは無いのですから。
多くの人々が、各自の暮らしに、安心立命を得られる、良き宗教と巡り
合われ、共に、住み良い社会を祈りつつ、合掌
ー完ー 20200504記 西畠
ーはじめにー
物心ついた時から、身近な宗教が醸し出す香りが豊かな環境に育ちました。それ故に、余り、宗教への偏見も無い代わりに、何故、この様に、多くの宗教が有るのであろうかと、疑問が生まれ、その事を考えならが、 現在に至ります。其の都度、自分に相応しい宗教を求めていた様に思います。その変遷を、一、出会い、二、流浪、三、宗教観、として書かせて頂きます。御笑読頂ければ幸いです。
ー宗教との出会いー
母方の実家には、内庭に、三体の祠が有り、毎朝、祖父は、呪文らしき 言葉を唱えながら、順番に、お詣りする時、その後について、歩く子供 でした。五歳頃でしょうか。この三体が、どの様なものであるか、詳し い事は知りません。ただ、祖父のお参りする姿と呪文らしき祈りが醸し 出す雰囲気に、何か、特別なモノを感じた様です。これが、最初の宗教 との出会いでした。
次に出会うのは、十歳頃から、父方の実家に住むことになりましたが、同居の叔母は、熱心なクリスチャンでした。日曜日には、叔母と教会に連れられ、賛美歌を歌ったり、イブの夜は、ロウソクの灯火の厳粛な雰囲気で祭事が行われ、叔母と共に、参加していました。
同時期、父方の祖父は、時々、分厚い仏教本を読んでおられ、毎朝、仏旗の前に座り、お経を読んでいる姿を覚えています。時々、一緒に、仏壇 に、お詣りしていた記憶が有ります。特に、記憶に有るのは、近くのお 坊さんについて、「あれほど、見事に、念仏される坊さんはおられ無い」 と感心されている、祖父の言葉でした。又、それを聞いてから、注意し て聞いた思い出が有りますが、成る程、「心に染み入る様な御念仏」と、
子供心に、感じたモノです。今でも、耳の奥に、覚えています。
ー宗教と流浪(其の1)ー
青年期に入っても、神社、仏閣、教会は、心落ち着く場所でした。だからと、宗教を勉強する若者でも有りません。この当時、ボンヤリと考 えていた事は、「如何にして、この人生を暮らそうか」でした。 その為、自分探しも有り、通学する県立丸岡高等学校の図書館の本、分野を問わず、乱読していました。案の定、受験勉強は疎かになり、浪人生 活二年の後、大学生活で「人生の目標を見定めた」後は、己の信ずる道 を、会社勤務十八年、自営業十八年、試行錯誤しながら、懸命に、暮ら した様です。その都度、巡り会う人々から、お世話になった事柄は、数えきれません。今、考えると、「自分に、相応しい宗教は何か」を流浪 していた期間と思えます。其処で、一、受験浪人二年、二、大学四年、三、社会人三十六年に分けて、書かせて頂きます。御笑読頂ければ幸いで す。
「受験浪人二年」
浪人生活は、金沢と京都で各一年しました。金沢では、心休まる場 所は、兼六公園で有り、公園内の図書館に通っていました。その他、下宿の近くの弓道場でした。この当時、宗教を求める心よりは、自然を散策すると、孤独は無く、心落ち着く様な若者でした。
さて、京都の浪人暮らしは、京都植物園、鴨川堤散歩、下宿から宝ヶ 池への散策ーー等、心休まる場所としていた様です。宗教施設としては、 下宿近くに、大徳寺大仙院の庭園に、度々、通いました。当時は、観光 客も見られず、庭園の庭を見ながら、昼寝が出来る程、静寂に包まれて いました。 当時の、宗教観と言えば、「全ての宗教は、人が自然と対峙した時 に、神仏の存在を感じる事柄で有るーそれ故に、多様な自然環境が有り、 多様な宗教は存在する。ーーーこの様な大まかな印象が、小生の宗教観 でした。
尚、大学生活、社会人については、宗教流浪として、ボチボチと書き綴っています。
ー宗教と流浪(其の二)ー
さて、漸く、「人生を如何にーー」の目的で入学した小生です。一応、 実家の跡取り、何処かの会社、何かの職業に付くのは、目に見えていま すので、一応、経済学科に、入学しましたが、授業は、真面目に、受け ましたが、落第し無い程度に、勉強していました。もっぱら、当初の目 的を考える為に、「哲学研究部」、通称「哲研」のクラブ活動がメイン の学生生活でした。
この部活において、終生の同学年の友達二人が出来ました。一人は、青森出身のK青年、もう一人は、同大学付属高校から大学へ来られたY青 年でした。当時の先輩には、在学六年の猛者をおられました。部員も、 男女二十名程と記憶しています。ミッション系大学なので、大らかな校風でも有り、K君は、「和尚さん」のニックネームで呼ばれる様に、仏教哲学に興味を持ち、菜食中心の食事と坐禅を日課にしていた位です。 又、小生は、近世浄瑠璃本を読んだ人間模様をテーマに、同大学の教会 講堂において、文化祭の哲研定例発表会で公演した事も有りました。
以上の様な、呑気な学生が経験した話題として、下記三件、御笑読頂け れば幸いです。
「日曜学校と幼子」
T大学の哲学教授にお会いする機会が有った時、「仏教、キリスト教、 どちらでも、日曜学校が有りますが、どの様な意味が有るのでしょうか」 と質問をされた時、答えられない小生達に、その教授は、「幼い子供達 に、宗教を理解する事は出来ないが、子供達が、成人して、何か、困難に直面した時、日曜学校で培った暮らしを思い出し、その困難に立ち 向かえる人となる効果がある」と「私は考える」と言われた事でした。 「成る程、無垢なる心には、宗教的な風土が大切」と感じた瞬間でもあ りました。
「思想家T氏との出会い」」
下宿していたアパートの住人のYさんの御誘いで、同じ下宿人のS大学 のN君と三人で、T先生と呼ばれる方の講演に参りました。お聞きした 内容は、当時の小生には、それ程、興味が持てる事柄でも無く、余り、 詳しい記憶も有りません。ただ、講演に参加された方々は、多くは、仕事帰りの人々で有り、T氏の話を熱心に聞かれている 様子が思い出されます。
さて、講演の帰り、Yさんの奢りで、江戸前寿 司で食べた寿司は、本当に、美味しい御馳走でした。四年間の学生生活 で、最初で、最後の美味しい思い出でした。今、考えると、小生達の学生二人は、 何、の苦労も知らない、未だ、花より団子の若者で有った様です。 この当時、T先生が、小生の人生に影響を及ぼすとは、露程も思わずにーーー。
「新興宗教との出会い」
東京の下宿、最初、目黒駅下車数分、白金台地区の木造アパートに住 んでいた頃の話です。当時、友人のN君は、戸越銀座に下宿していました頃です。某日、慌てた様子で、暫く、同居させてくれないかと、助け を求めてきました。訳を聞くと、どうも興味本位で入会した新興宗教の S学会より退会する時のトラブル有り、信者に追いかけられている様 子でした。 ではと、一ヶ月ばかり、同居生活していましたが、信者の繋がりから、 小生のアパートを探し、遂に、数人の若者の信者が、布教に訪れる様に なりました。
当時のS学会は先鋭的な布教時代でした。「学生には学生」と考えたのか、毎夕、二時間程、大学生二人、高校生一人が訪れました。
彼等は、正座をして、彼等の主張をする事、数日に、及びました。其処 で、小生達は、彼等の話を聞く事に努めました。ただ、小生達は、喉が 渇けば、喉を潤し、柱に背もたれ、胡座で、長期戦に臨みました。こちらからは、一切の議論をする事はしませんでした。
何故ならば、彼等は、何かに、憑かれている様な話し方でしたから。
長丁場となり、時々、メンバーが替わりました。遂に、最後の日が来ました。
正座している学生、足が痛いのか、もぞもぞしたので、痛いならば、足 を崩したらと勧めました。そして、遂に、学生の一人が、「これだけ話 しても、判らないのは、貴方達は馬鹿か」と言われました。
其処で、穏やかな口調で、「馬鹿と思うのは、貴方の勝手です。馬鹿と話ても、貴方達の時 間の無駄でしょう。お帰り下さい。別に、こちらが、お願いした対話で は無いのですから」と伝えて、この件は終わりました。
ー宗教と流浪(其の3)ー
二十五歳で大学を卒業、会社員十八年、自営業十八年、合計三十六年を経て、六十歳 頃迄、就労による収入を得ました。この期間は、日本経済のスタートか ら目覚ましい経済成長へと向かい、その頂点を極め、遂には、衰退へと 向かおうとする激動の36年でした。この期間に、経験した話題を、箇条 書きに、書かせて頂きます。御笑読頂ければ幸いです。
「T先生の中心思想に触れる」
さて、無事、就職をしましたが、未だ、学生気分は、抜けず、又、学生 時代にお会いした思想家でも有るT先生との御縁もあり、会社休みの日 は、京都の先生の活動拠点で有るC学園に、時々、訪問していました。 その御縁を、掻い摘んでお話しします。
大学四年の夏休み、 帰郷の折、中学生時代の旧友から電話が有り、突然、麻雀しないかとの お誘いが有りました。本来、彼は、中学を卒業して、商社に入り、暫く して、独立してブローカーをしていると聞いていたので、彼が自宅にい るのが、不思議、「どうしたの」と聞くと、親会社の倒産の煽りで、彼の商社も、パンクして、自宅に、潜り込んでいるとの話でした。
其処で、麻雀なんかしている場合か、家に来ないかと話すと、彼も、わかったーと、直ぐ、来宅した事が有りました。
事情を聞いて、「 ほとぼりを覚ますために、知り合いの施設に行かないか、仕事は、 施設内の手伝いをすれば、食事と住処は確保出来る処が有る、ただ、収 入は無い。どうだ」と提案すると、「了解」との事。
善は急げと、二人とも、血気な若者です。明くる日、京都のT学 園へ、彼を伴ない訪問して、学園のN事務長に、直談判して、事情を話 した結果、事務長は、小生の話と彼を見て、二つ返事、「受け入れる」と了解 してくれました。以上が、ご縁の始まりでした。
これ以降、友人を預けた手前、時々、彼の様子を伺う事とC学園の著名 人を招待する講演、T先生の「中心思想」の講演を聞く事が楽しみで、 一泊二日の旅を楽しんでいた時期でも有りました。
「母の心労」
この様な時期、小生の母親、親戚一同、実は、陰ながら、小生が、T先 生に心酔する余り、この団体に入るのではーー」と、心配したそ うです。これは、後から、細君に聞いた事ですが。母と母の実姉二人は、 小生に内緒で、C学園の講演を聞きに訪問した事も有ると聞きました。
「T先生の配慮でS先生と出会う」
この様なある日、音楽教育において、高明なS先生の講演を聞いた時、 T先生は、西畠君、京都駅に帰るのならば、S先生の送迎車に同乗しな さい。と言われて、ご一緒した事が有ります。車の中で、小生は、ズバ リ、音楽教育の基本は、何ですかと、お聞きしましたら、思い掛けない 答えが返って来ました。
それは、「誰にでも、生まれた地方の言葉訛り が有ります。実は、これを音符にすると、それは大変複雑な作業となり ます。しかし、生まれた子供は、百人が百人、それを習得する事が出来 ます。この事は、誰にでも、音楽を聴き分ける才能が潜在的に有る事で す。僕は、其れを信じて、音楽教育をしています。」と言われました。 この言葉は、物事考える上で、後に、大変に参考になる言葉となりまし た。
もし、T先生の配慮が無ければ、聞けない事です。今でも、感謝し ています。
「先生の言葉 」
親達が心配している事を、何となく、感じていましたが、T先 生の生き方に、憧れを感じていた事も事実です。この様な時、先生に、 その事をお聞きしましたら、もし、僕の様な事をしたいと望むならば、「君 の望む職業に付き、家庭を持ち、親孝行をして後、もし、君に、その情 熱が有るのならば、その時代に相応しい事柄で、君が出来ると思う事を しなさい。」と言われました。それに付け加えて、「ただ、心身が衰え ていては、それも出来ないから、余力のある間でないと」と、笑顔で言 われました。
ーーー次回は、宗教と流浪(其の4)、会社生活に於ける事柄です。
ー宗教と流浪(其の4)ー
「子宝を神仏に祈る事」
この頃、小生達夫婦の悩みは、結婚四年目、夫婦生活は、順調なのに、子供 が授から無い事でした。実は、両親も同様、六年間子供に恵まれず、藤 井寺市の藤井寺に子宝祈祷に行き、漸く、小生が生まれた事を知らされました。此処で、母に勧められ、会社の有給を取り、藤井寺で子宝祈祷 をスタートに、一週間程の旅に出ました。
旅行から帰り、間も無く、細君は、少し、下血しました。急遽、産婦人科の診察を受けた処、妊娠の兆候が有るが、残念ながら、堕胎せざるを得な
い状態でした。又、どちらかと言えば、子宮が丈夫ではなく、今後、妊娠しても、細心の注意が必要と言われました。其れから、一年後、二回目の妊娠、長男が授かり、二年後には、長女も授かりました。
「早朝、泰澄寺への参拝する」
さて、会社勤務二年目、新会社設立準備の為、管理事務所に出向した頃です。時々、三十八社の泰澄寺へ、早朝早く、お参りに行き、文殊山から 昇る「日の出」を拝みました。 朝日を拝みながら、若き頃の泰澄大師が、この寺から、文殊山の頂上に 有る祠迄、馬で日参した逸話に、思いを馳せていた様です。 お陰で、未知数の仕事に対する不安、孤独感を乗り越えられた様に
思います。ーーー次回は、宗教と流浪(其の5)に続きます。
ー宗教と流浪(其の5)ー
「ルーチンの大切さ」
勤務先の社長さんは、熱心な稲荷信仰の信者でした。多忙な仕事の日々、 体調が悪くなると、京都の伏見稲荷神社に修養に行かれました。伏見か ら戻られると、?剌とした姿で、会社で仕事をされていました。 以前にも書きましたが、母の実父も信仰の深い方でした。庭には、お稲 荷さんの祠も有り、社長さんに、親しみ覚えていました。 社長さんは、会社の創業者で有り、目の前の利益よりも、将来性に投資 するタイプの社長さんでした。企画タイプの小生は、随分、助けられた 様に思います。
社長さんは、当初、言われた様に、将来に布石打つ用件を指示されたり、他業界の人々との会食が有ると、一緒に、参加させて頂きました。
そのお陰で、随分、見聞を広める事が出来、感謝しています。 例えば、ドイツのメガネ関係の工場長が、来県された時、組合長でも有 る社長に勧められて、会食に参加させて頂きました。その折、印象に残っ ているのは、世界の何処に、商用旅行をしても、自分には、決めている 事が有ります。それは、工場を不在にするには、「一週間限度とする」 とーーー。
その他、多くの経験から、良き先輩達は、良きルーチンを持たれている 人々でも有る事を知りました。会話の中で、それらの一端を教えて頂いた事も有ります。そして、そのルーチンの源は、個々の「宗教観、人生 観」と深く関わっている印象を受けました。
ーーーー次は、宗教と流浪(其の6) ーーー
ー宗教と流浪(6)ー
「家庭と宗教」
小生が、三十代から五十代迄は、当時の男性同様、仕事人間でした。子供は、母と妻に任せ、偶に、日曜日に、家族と遊び、年一回、家族旅行 したくらいです。母と妻君のお陰で、長男、長女、スクスク育ち、現在 は、二人とも結婚、其々、子は授かり、県外で、其々、平和な暮らしを 営んでいます。
当時、母は、仏壇にお参りする時、長男、長女も手を合わせていた様で す。母と妻の仲も良く、円満な家庭でした。今では、妻が、仏壇の御世 話をしています。現在、子供達が帰郷すると、先ず、孫共々、仏壇に、 お参りしています。我が家では、仏縁は、連綿と続いています。
「叔母と十字架」
入社して十年目頃は、日本の経済成長の波に、勤務先のM社も、 国内外に、販売先を持ち、自社の国内展示会は4ヶ所、欧州眼鏡展示会 に3カ所、毎年参加する会社に成長していました。 この当時の思い出です。
小生は商品企画をしており、二年に一回ペースで、春になると、ヨーロッ パ(ドイツ、フランス、イタリア)開催の眼鏡業界展示会へ視察と文化学習をしていました。その様な折、何回目かの欧州訪問の時、観光を兼 ねて、バチカン市国へ参りました。 其の時、何の迷いも無く、銀の十字架、
叔母の土産に手に入れていました。別に、叔母に頼まれていた訳でも無く、今、考えても、不思議な経 験です。
当時、叔母は再婚され、綾部市の田舎に住んでいました。久々に、来 宅された時、十字架をプレゼントしました。叔母は、思い掛けない程、 喜んでいました。今でも、当時の叔母の喜ぶ様子、思い出されます。
当時、叔母から、年に数回、キリスト教布教の小冊子が贈られており、 閉口した覚えが有ります。小生の母などは、入信するのでjは無いかと危 惧しました。何故ならば、我が家は、浄土真宗門徒で有りましたので、 その様な事があれば、母は、一大事と考えでいた様です。
しかし、小生は、祖父より、家の宗教で有る浄土真宗門徒を継ぐ事は、 遺言により伝えられており、それを裏切る事など、思いもよらぬ事でし たから、母には、心配は要らないと話した程です。
因みに、現在、国内外、何処に、旅をしようと、その土地の宗教施設が 有りますと、必ず、お参りする事にしています。その気持ちは、その土 地の神々に挨拶をする思いでおります。
ーーー次回は、ー宗教と流浪ー(その7)です。ーーー
ー宗教と流浪(其の7)ー
宗教と流浪は、ー其の1ーからスタートしましたが、今回のー 其の8ー迄です。今回は、この期間に、経験した話題から、御参考にな ればと、「親友の兄弟の思い出」、「宗教とのご縁」ー等です。御笑 読頂ければ幸いです。
「社会生活と新興宗教」」
友人N君は、マンションのオーナーですが、知人に部屋を貸しました が、実質の用途は、T新興宗教の集会場でした。当時、他県に置いて、 問題を起こした宗教でした。暫くすると、部屋を借りているT宗教の方 から、正月の集まりに、舞披露の依頼が有ったそうです。
この点について、N君から相談を受けました。そこで「君は知人に部屋 を貸しているだけ。又、もし、参加したら、君は、ご近所からT教に入 信したと思われる、丁寧に、お断りしなさい」と話しました。 彼は、参加は思い留まりました。
もし、参加していれば、信望の厚いN 君が参加したと、布教の宣伝に使われたと、小生は推察します。
「新興宗教と知人T社長」
当時、顧問をさせて頂いていたY社長の奥様から「最近、Yさんは、M新興宗教に入信してから、毎月数十万単位で、M教への出費が 有り、又、社員に入信を勧める状況を心配されて、どうにかして欲しい」と相談されました。
Yさんに、お聞きすると、「教祖の方は素晴らしい方で、そのM教の集まりには、皇族も来られるーー等」と話しが有りました。小生は、この 話に不審を感じて、下記二つの調査をして、Yさんに、報告しました 処、退会されました。奥様も、社員の方も、安堵された様です。
調査(其の一)
宮内庁の宮務課に、「M殿下が、Yさんが出席された日時に は、どの様な集会に出席されましたか」と、お聞きしました。その回答 は、全国に知られた慈善団体で有り、殿下が名誉総裁をされている集ま りでした。
これより、判明した事は、この慈善団体に、参加された関係者と、同行 して、Y社長は参加された様です。ただ、Y社長は、M教の集会と信じて 参加していた様です。実に、巧妙な方法で、小生も驚きました。
調査(其のニ)
M教は、既存仏教団体の一派とも、Y社長からお聞きしていま したので、京都の知人に、調査依頼しました。
その結果、「M教は、この既存仏教団体の一派で有るとの触れ込みで、 信者を集めている」との迷惑行為が有り、このM教には、注意する様に と、既存仏教団体として、通達を出した」と連絡がありました。
「親友の弟さんの話」
彼は、地元の国立大学を卒業後、紆余曲折の職業を経験して、最終は、 占い師の養成所学校に入学しましたが、卒業と同時に、その学校の教師 になられました。小生と付き合う頃は、「占い本」の編集者にもなられていました。それ以来、毎年「占い本」が送られて来ました。
又、時々、お会いすると、適切な指摘も頂き、我ら夫婦の暮らしの指針 の助けになりました。この御兄弟とは、永年のお付き合いでした。本当 に、お世話になりました。現在は、他界されています。ご冥福を祈るば かりです。
「多彩な宗教とのご縁」
我家は浄土真宗門徒です。友人の宗教を聞けば、何故か、ご家庭は日蓮宗、親族の多くは、浄土真宗ですが、真言宗、禅宗、キリスト教、天台宗、天理教ーーと、バラエ ティに富んでいます。又、最近では、臨済宗、浄土真宗の仏門の方々と お知り合いになりました。その都度、多くの人々に、多くを学ばせて頂 いています。
次回は、ー宗教と齟齬理解(其の8) ーとして、60歳からー現状迄を書か せて頂きます。
ー私の宗教観ー
約十七年前、60歳になり、浄土真宗門徒として、法名「釈慧実」を頂き、 「三世の旅」の準備は出来た様に思います。今後も、現世においては、 多様な宗教観を持たれる人々と触れ合いながら、十人十色の人々が住み 易い社会となる様に、人間社会に存在する齟齬理解を共有しつつ、人生 を暮らしたいと思う、この頃です。
今回、「宗教との出会い」「宗教と流浪」と続きましたが、最終章とし て、「私の宗教観」として、一応、下記、三項目を予定しています。さ て、どうなるかわかりませんが。御笑読頂ければ幸いです。
「法名を頂く、私の気持ちとは」、「何故、多様な宗教が有るのか」、「人生を豊かにする宗教観とは」。
「法名を頂く、私の気持ちとは」
六十歳になり、西本願寺へ法名頂きに参りましたが、その動機について、 少し、書かせて頂きます。因に、法名「釈慧実」です。
(五十歳頃でしょうか。碑文「等觀三界空無所有」を読み、「この世 に生まれ、人として生かされ、一生を終えて、来世に旅する」、己を感 じました。
その後、間もなく、「現世で有るが、己れ自身、時空を飛翔してい る」と体感する事が、時々、有りました。 この体感は、表現は難しいのですが、敢えて、書けば、「身の回りの風 景、この地球さえ、意識から消え失せて、ただ、己が、宇宙を飛翔して いる感覚」でしょうか。この体感をする、何回目の時、実に、自然に、既に、三世を旅しているならば、法名を頂いても、早くはな いと考えて、六十歳の時、頂きました。
ーーーー次回へーーー
ー宗教観(2)ー
はじめに:?哲学、科学、宗教の違いを端的な言葉で表せば、 人は、考えを深める時、哲学が生まれる。 人は、考察と文物を駆使する時、科学が生まれる。 人は、各自の心身を駆使して、世界を理解する時、宗教が生まれる。
以上を基本として、「何故、多様な宗教があるのか」、「世界宗教地図 を眺めて」の思いを書かせて頂きます。御笑読頂ければ幸いです。
「何故、多様な宗教が有るのか」
人間は、本来、十人十色で有り、その結果、各自の宗教観が存在します。
では、何故、人は宗教観を必要とするのでしょうか。その根源は、「不 明」への「不安、畏敬、恐れ、等」と思います。それ故に、世界的に有 名な宗教は、社会の変化と共に、常に、人々の暮らしに寄り添う宗教と して、後世に受け継がれていると思います。
「世界宗教地図を眺めて」
不明への理解が宗教で有り、個人の認識が基本ならば、当然、新しい宗 教観が生まれる可能性が有ります。その証拠に、大小多数の宗教が世界
に存在すると思われます。それ故に、宗教地図も、刻々と変化している と思われます。
世界宗教地図見ると、無宗教の存在も地図に表示されています。
私見ですが、「無宗教派の人々は、各自の心身で感じる不明な事柄が有 れば、宗教的理解では無く、個々の理解をされる事で、安心立命をされ ておられると感じます。
歴史を見ても、異なる宗教間の勢力争い、宗教と無宗教の論争が見られ ますが、この事で、少し、書かせて頂きます。
宗教認める人々も、認めない人々も、どちらが正しいか、他者と論議す る程、愚かな事は有りません。 何故なら、十人十色の人々が、森羅万象を理解する術の一つが、其々の 宗教で有り、無宗教派なのですから、住み良い社会願う点で合意するな らば、それで、十分と思いますから。
別の表現をすれば、宗教は、「不明を理解し、各自の人生に、安心もた らす」事が基本と思います。無宗教派も、各自の「不明」を、其々に、 納得されて、安心立命を持たれる人々と思いますから。
参考、ウエブ上では、多く宗教地図を検索されました、その一つを添付 します。御覧下さい。
ーーー次回へーーー
ー宗教観(3)ー
「最後に」
宗教に関して、誰からも、何故、宗教が生まれたのか、又、新興宗教が 生まれるのか、この事に関して、教えられた事は有りません。其処で、 私見ですが、出来うる限り、正直に、己の宗教観を披露する事も、他の 方の「考えを深める」一助とも、巷で散見する、宗教被害防止になれば と、一連のレポートしました。
今回は、全宗教の基本と考えること、少し、小生の思いを 書かせて頂きました。御笑読頂ければ幸いです。
「宗教とは」
再度、小生の私見「宗教とは」を記述します。
[ 哲学、科学では理解出来ない「不明」と対峙した時、人々は、森羅万 象への、畏敬の念が生まれ、各自の宗教観となり、心身の安心となる。]
以上ですが、、よくよく、考えた思いを、三方面から書かせて頂きます。
(其の一)
人間社会では、社会的地位、職業、貧富、性別ーーと区別が有り、否応 なく、何処かの一員になりますが、 宗教の世界では、(各自の心身)と(森羅万象の世界)の関係、具体的に言 えば、(信者一人)と(信仰する神仏)との、極めて、個人的な関係と申せ ましょう。 小生は、どの様な宗教であろうと、これが基本と思います。
(其のニ)
具体的に説明すれば、 現実社会の宗教活動は、人間社会の営みですから、其々、信者、宗教家、 教祖ーーと立場は異なりますが、 「信仰の世界」では、誰しもが、神仏に対する同胞で有り、信者で有る と言えます。
(其の三)
:日の出に、手を合わせて、小生が「南無阿弥陀仏」と念仏し、同じ、日 の出を見て、他の人は、「ーーー」と祈られる時、お互いの宗教は違っ ても、宗教の信者で有り、森羅万象の神仏との関係です。
同時に、各自が、どの様な気持ちいるか、日の出を、如何に見ているか、 実は、お互い、他人の心情を、知る事は出来ないのです。 何故ならば、各自の宗教観も違えば、同じ宗派であろうと、各自の心身 は、同じでは無いのですから。
多くの人々が、各自の暮らしに、安心立命を得られる、良き宗教と巡り
合われ、共に、住み良い社会を祈りつつ、合掌
ー完ー 20200504記 西畠