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2011年08月24日

暮らしの中に,厳かな存在を味わう時

「ご家庭の宗教をご存知でしょうか。」と他人に聞かれた時、咄嗟に、ご返事出来る方は、以外と少ない事を知りました。それほど、日常生活において、宗教に関する関心が少ないと思います。ただ、仏教門徒のご家庭であれば、お坊さんとのお付き合いが有り、クリスチャンであれば、日曜礼拝が有りますから、何となく、仏教とか、キリスト教とかの大まかな区別はお知りのようです。そして、ご家族が仏壇とか、祭壇にお参りするご家庭では、それらにお参りする素養があります。又、多くの日本人は、神社仏閣に、お正月とか、お祭りとか、観光地において、お参りをしたり、お賽銭を出したりします。その時は、家内安全、商売繁盛、平和、病気快癒、ーーー等、多様な願い事をされます。各言う、小生も、家内安全、世界平和を願いながら祈ります。これらを考えると、宗教に、それほど関心はなくても、何か、森羅万象の背後に有るであろう存在について、各自の心の眼差しにより、なんとなく、認識されているように思います。このように考えると、宗教とは、それらの存在への理解をする道なのかも知れません。このような想いで、身の回りを見回しますと、例えば、生かされ,生きている、我が手、庭木のヤドメーーのスナップを見ていますと、この世の一部を眺めている心ともなり、愛おしくも、我が手、我が庭の木々と言えども、厳かな存在がなせる業とも感じます。世界の人々が、このような気持ちをもたれれば、お互いの文化、宗教、信条の違いより生ずる「齟齬」がなせる、殺戮、圧政、騒乱、自然破壊ーー等が、如何に、愚かな事であるかと思われるのではないでしょうか。

「掌を眺めれば、森羅万象に厳かな存在を感ずる。其の存在を人は、神とも,仏とも言うのだろうか。」

投稿者:孜at 11:49| 日記 | コメント(0) | トラックバック(0)

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