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2005 年05 月02 日

重たいテーマ

休みでのんびりTVを見ていると、福知山線の脱線事故の話題がワイドショーやニュースで取り上げられ、遺族や後遺症が残りそうな重病者の方の取材記事が毎回出てきます。ここで多無パパ、即チャンネルを換えればいいのですが、現実の身に起こった怒りや人生、運命の悲哀、はかなさ、悲しみ、憤り、やるせなさ、苦悩、慚愧におえない苦痛を耳に挟んでしまうとなぜか換えられなるんです。気持ちの持ってき場所がないんです。

取材を進めるマスコミの行き過ぎではないのか、ドキュメントとして追究してなんになるのか、JR西日本の批判だけでいいではないか、嘆き悲しんでいる人たちのコメントを全国放送する意義があるのかどうか、なぜそっとしておけないのか。多無パパは回避行動として、お酒飲まずにはいられなくなります。

昔、TVはしらふで見るもんじゃない、と言った人がいますが、その意味合いは、眉唾で作り上げた作話を真面目に真剣に見てTV局に抗議したりする方がTV局以上にばかげている行為である、とのことだと思います。

実際に起こってしまった今回の事故の報道や地下鉄サリン事件などはドラマやバラエティー、くだらないやらせ取材番組より、興味深い関心事には違いないです。ホント、どこにでもいる普通の方々が運命のある瞬間に、ある状況でどんな名俳優も出来ないせりふを台本なしで出来てしまうんです。これをTVの見せ場に持ってくるのは卑怯で汚いです。遺族の感情の発露はその場の当事者以外に見せてはいけないことだと思います。

京都-2

投稿者:多無パパat 20 :08| 日記