2008 年05 月21 日
成都武候祠博物館
劉備殿の門をくぐるとその裏側の壁の左側に「前出師の表」、右側に「後出師の表」があります。「魏の曹操を倒して漢王朝を復興し、都(長安)を取り戻すこと」が劉備と孔明の悲願でした。蜀の国は志を半ばにして劉備が白帝城で亡くなって、劉備の長男の劉禅が帝位についていた227年、劉備の軍師であった諸葛孔明は、魏の曹操を討つために軍を動かしました。出陣に当たり、国に残す若い皇帝劉禅に奉った上書が「臣亮(臣下の諸葛亮)もうす、先帝(劉備)創業未だ半ならずして中道に崩姐(亡くなる)せり。いま天下は三分し、益州は疲弊す。これ誠に危急存亡の秋なり。」と書かれた出師表です。翌228年に書かれた出師表と区別する為に、前出師表とも呼ばれていますが、正史三国志の中には後出師表の記載がないため、後出師表は後世の偽作だろうとも考えられているそうです。で、成都武候祠博物館にあった前と後の出師表の石版の最後には「岳飛」とあります。この前後出師表の字は諸葛孔明の書跡ではなく、南宋時代の岳飛将軍の書跡です。投稿者:ぴるぜんat 21 :41| 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )