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2010 年02 月11 日

特捜検察の闇

 「検察幹部を激怒させた1冊」という中嶋博行の解説が付されている。2001年5月に出た魚住昭の本だが、改めて読み直してみても、核心をついている。「特捜検察」で東京地検特捜部を礼賛したジャーナリストが「検察はかつての検察ではなくなった」「自分が知らず知らずの間に検察=正義という幼稚で危険な発想をしていたことに気づかされた」として検察批判を繰り広げている。「彼らは関係者の利害や思惑が複雑に交錯する経済行為の実態を知らず、きわめて表面的な捜査に終始する。」という指摘も、90年代後半から目立ち始めた「新たなえん罪」は「真実の探求より、あらかじめねらい定めた対象の摘発を優先する国策捜査から生まれている」との指摘も、今日もなお妥当している。
 唯一指摘が時代遅れになっているのは、「国策捜査」の定義だろう。当時は、国家の政策と検察が一体化することを意味したが、自民党政権が崩壊し、政官経による統治体制がなくなり、「国家」の形が変わろうとしているのに、未だにかつての「国策」をかたくなに守ろうとしている。自分たちこそが「国策」であるとアピールしているのが今回の小沢捜査だ。

 最後に、2003年5月に文庫版が出版されたときに書き加えられた終章から引用しよう。
「検察は自らの疑惑を封じ込めながら安易に人を逮捕している。だが、この国にはその検察の暴走に十分な歯止めをかけられる機関も法制度もない。裁判所jは近年、検察寄りの傾向をとみに強めているから、ほとんどあてにできない。」
 これに対する答えは、特捜部の解体と、違法捜査を繰り返してきた検事の罷免と特別公務員暴行陵虐罪による告発だ。加えて、検事の入替と、検事任官資格としての弁護士経験の採用が不可欠だ。
 
 

投稿者:ゆかわat 09 :21| ビジネス | コメント(0 )

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