2011 年08 月19 日
福島第二原発訴訟
自治実務セミナー2011年6月号に掲載された櫻井・学習院大学教授の「行政法講座55 福島第二原発訴訟」から紹介してみよう。原発訴訟の「真実」が明らかになるだろう。住民は原発訴訟で原発の安全性を主張する。住民は「施設の安全性を言葉の素直な意味として正面から問い、生身の人間として、日々の生活における自分や家族、隣人を思い描きながら施設は大丈夫なのかという問題を投げかける。」
それに対して、原子炉設置許可処分権者である国は、施設の安全確保につき第一次的な責任を負担するのは設置者であって、国は行政規制により安全の確保に間接的に機能することが要請されるにすぎないとして、法の定める安全審査をすれば足りるとする。
ここにおいて安全の意味のすれ違いが生じている。
これに対して裁判所は原子炉設置許可処分は専門技術的な裁量処分であるから、科学技術的問題について裁判官は全くの非専門家であり、訴訟には証拠収集上ないし心証形成上の制約があり、取消訴訟における裁判所の審理の本質に照らして、司法審査の範囲は狭くならざるを得ず、行政当局の判断を尊重せざるを得ないという。
原子炉設置許可処分における施設の安全性判断の責任は「お見合い」といわれる無責任状態が生じる。
結局、裁判所は「原発をやめるわけにはいかないだろうから研究を重ねて安全性を高めて原発を推進するほかないであろうなんて言いながら住民側の請求を棄却」するのである。
「判決は基本設計のみを対象として安全性があるというにすぎない。現実に建設され運転されている原発が安全性を有するかは別問題である。」
国民は裁判所に安全性を問うが、それに対して責任を持つ機関はどこにもないのが現実である。
最後に、櫻井教授の結びの発言を引用しておこう。
「裁判所に期待されるのは厳しい法律論であって、評論家みたいなコメントではない。裁判所が施設の安全性にかかわる技術論を法律問題として扱わない、あるいは扱えないのであれば、原発訴訟に実質的な意味はなく、それが法治国家における最後の手段でっはありえないことは指摘せざるを得ない。」
投稿者:ゆかわat 00 :01| ビジネス | コメント(0 )