法科大学院制度の在り方
法科大学院制度には様々な問題が生じてきている。その一つとして、教育内容・司法試験合格率の格差の拡大が言われている(もっとも、私からすると、そんなものは、問題でもなんでもない。法科大学院を司法試験の予備校と間違えているのではないかと思えてならない。)。
問題はその改善策だ。国も、日弁連すらも、それを改善するために法科大学院の統廃合と定員の削減が必要だという。しかし、どうして自然淘汰ないし自主的統廃合を待つのではいけないのだろうか。
9月1日の日弁連の法科大学院制度の在り方を考えるシンポジウムでは、大貫教授は「教育力のある教員の地域偏在とポテンシャルのある学生の減少を改善するためには統廃合が必要であり、自主的統廃合を待っていたのでは遅々として進まない」ことを指摘された。しかし、教育力のある教員がいないからそこを廃止するというのでは、出来の悪い子は間引くという優生思想ではないか。国の財政効率化の視点としては理解できても、どうしてそれを日弁連が筆頭に立って主張するのか。しかも、法令上の措置を伴って統廃合するというのだから、それは、大学の自治の侵害ではないか。どうしてそんなことを、学者も、日弁連もいうのか私にはまったく理解できない。
地域適正配置には一定の配慮をして地域にそこしかないという場合は厳格には統廃合を求めないというが、それも情状酌量で執行猶予というだけである。それでは、私のいる法科大学院などは、京都には複数の
法科大学院があるから、合格率が低迷する状態が続けば直ちに退場ということになり、救済の余地はないということになる。
そもそも法科大学院の評価を合格率だけで図るのが妥当なのか。合格率のよい法科大学院が「良い」法科大学院で、合格率の低い大学は存在価値がないのか。これは悪しき偏差値主義以外の何物でもないのではないか。
しかも、よく考えてみてほしい。下位校退場ということは、上位校に入学できなければ、司法試験受験資格すら与えられない(予備試験は除く)、法科大学院で勉学するという機会すら与えられないということです。現状では、下位校からは毎年数人しか司法試験には合格できていないが、それでも、その人たちは下位校で勉強したからこそ司法試験合格(いわば上位校には合格できなかったが、司法試験という敗者復活戦で合格)できたのだ。私の行っている法科大学院の現状は、まさに京都にある他の上位校に入れない人たちが来ている。上位校に入れない人間は法曹にはなれない(そもそも法曹になる資格すら与えられない)というのは、大学格差の司法試験版の承認であり、それこそ司法試験の理念の大否定ではないか。
現在考えられている法科大学院制度の改善策は、立法事実の検討(目的と手段との合理的関連性の検討)もおろそかで、あまりにも議論が稚拙だ。
投稿者:ゆかわat 00 :13| ビジネス | コメント(0 )