<< 前のエントリ |メイン | 次のエントリ >>
2018 年06 月09 日

東京女児放置死事件

虐待されても「ママゆるして」に島田キャスター思わず涙 結愛ちゃんは救えた命
https://www.fnn.jp/posts/00321330HDK
誠に可哀そうすぎる事件で、亡くなった女の子の遺したメッセージは涙なしでは読めない。親なのにどうしてそのメッセージを受け止められなかったのか。人じゃない、親じゃないと思ってしまう。

しかし、ふと立ち止まって考えてみる。このメッセージの全文を公表したのは警察だ。警視庁は両親による悪質な犯行を裏付けるうえで重要な証拠と判断し、女の子が記したメモの公開に踏み切ったという。これは、親の犯行を印象付ける警察のメッセージ、そして親の反省・自白を迫るメッセージではないのか。

むしろ、私たちは、このメッセージをどうして親が真摯に受け止めなかったの、その理由は何かを考えるべきではないのか。この日記の文章だけがあったのではなくそれは日記の一部なのではないのか。親にまた嘘ばかり書いてと思わせた、何かがあるのではないのか。そこには、この親子の生活史があるのではないのか。それを抜きにして、このメッセージだけ切り出して、被疑者を親でもない極悪非道者と見るのは、誤りではないか。

反対の視点から、この親の視点からみたら何が見えてくるだろう。しつけと虐待がそれほど敢然と区別して判断できるものか。女の子が今日も外で泣いていたら、近所の人は、虐待されていると思うだろう。でも、そこには親子の約束事があり、親子のこれまでの生活史があるのではないか。
また、おばあちゃんが夜外でわめいて家に入れてくれと叫んでいたら誰でも虐待だと思うだろう。しかし、そのおばあちゃんが痴呆で、人にかまってほしいためにざわと大げさにふるまっていたらどうだろうか。
ちっちゃい女の子も、痴呆のおばあちゃんも、その証言は全面的に信用できないのに、児童虐待・高齢者虐待は、そのおそれがあれば、一時保護がされ、さらには犯罪となる。おそれのないことの立証は不可能だ。

そこに、メディアはこの東京の事件のように亡くなれば、やれ親が悪いだの、児相の責任だのとニュースにする。しかし、人が死ななければ、誤った児相の措置に対しては何も報道しない。いきおい、児相や警察も、マスコミに叩かれるのが嫌だから、犯罪予防を旗印に、どんどん家庭の中に入り込んでくる。子供が死んだら叩かれるけど、間違って一時保護しても褒められこそすれ、メディアからパッシングされることもない。
どんどんそんな社会になっていくのではないのか。
むしろ、この事件は、この犯罪は、児相と警視庁が創り出したものではないのか。
そんな目で検証することも必要なのではないか。家庭と行政と警察のすみ分けをもう一度よく考えてみる必要がある。

投稿者:ゆかわat 00 :23| ビジネス | コメント(0 )

◆この記事へのコメント:

※必須