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2006 年10 月26 日

県立高校履修漏れ

富山県の県立高校で必修の世界史の履修漏れ事件が発覚した。その後の全国調査で少なくとも33県以上で同様の事件が起きていたという。大学受験を目前にして、必修科目だから高校卒業のために今後補修を行うという。官房長官は「ルールは守ってもらわないと困る」とまで述べた。

しかし、ちょっと待て。ルールを守らなかったのは高校=大人の側であって、高校生=子供の側ではない。どうして大人がルールを守らなかったつけを子供が負わされなければならないのか。高校や教育委員会が申し訳ないと言葉だけ謝ればすむのか。現役高校生は怒るべきだ。大人のルール無視のために、大学受験を不利にされて良いのか。

 学習指導要領は法的拘束力を持つというのが国の立場だから、高校が歴史地理の履修が必修だと分かっていながらこれを生徒に履修させなかったということは、在学契約の債務不履行に当たるし、故意に違法行為をしたわけだから国家賠償責任も生じる。これを校長が生徒に謝罪して動揺せずに志望校目指して勉強するようにと呼びかけてすむ問題か。欠陥自動車を売っておいて、メーカーがユーザーに今後は気をつけて運転するように訓示するというのと同じレベルではないか。これで仮に大学受験に失敗したり、卒業資格が認められなかったら損害賠償すべきであるのは当然であるし、仮にそこまで現実的な被害が発生しなくても、大学受験を控えたこの時期にこんな不祥事で精神的動揺を与えたこと自体が慰謝料支払の対象となるだろう。

 履修漏れの生徒に対しては大学受験を控えたこの時期にこれから補習をするという。しかし、履修漏れのまま卒業した生徒に対しては補習をせずに、現役の高校生に対してだけ補習をするというのはおかしくはないか。それに、大学受験への配慮も必要だろう。公平・平等・負担への配慮が不可欠だ。そもそもは学習指導要領を故意に無視して違法なことをしておいたつけを生徒にだけ負わすということをどう考えるのか。

 そもそも高校卒業のための必修単位だと決めたのは文部省の教育指導要領だが、それは誰のためのものか。当事者の高校生の意見を聞いて決めたものなのか。当事者の意見も聞かずに大人が決めた指導要領を、当事者の声も聞かずに大人が無視したのに、そのつけだけを子供が払わされてよいのか。それが正義なのか。

 10月27日付日経朝刊に東北大大学院教授のコメントが載っていた。
「今回の問題を聞いても驚かなかった。大学入試センターが数年前、東大医学部に入学した学生の履修科目を調べたところ、2割前後が必修の世界史を履修していなかった。」

 東北大の教授がこの事実を知っていると言うことは、大学教育関係者の間ではこの大学入試センターの調査結果は、割と公知の事実なのだろう。ということは、当然、文科省も知っていたのではないのか。知らなかったとすれば、そのこと自体がおかしい。
 その対応をせずにおいて、問題が表面化したからといって、いかにも知らなかったような顔をして、文科省が25日に各都道府県・政令市の教育委員会に必修科目の履修状況の調査を指示するというのは、おかしくはないか。

11月1日日経夕刊によると、履修漏れは全国の10%540校で8万3700人に及ぶという。もはやこれは補習を70回にするか50回にとどめるかという問題ではなく、そもそも履修漏れの根拠となる学習指導要領破りが各県各校で常態化している事実を正面から認めて、学習指導要領の法的拘束力を否定すべき時期に来ているのではないのか。

投稿者:ゆかわat 22 :05| 日記 | コメント(0 )

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