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2010年07月14日

夜半に出会う 言の葉

昨夜、夜半に目が覚めて眠られぬまま、小さい和室の書斎で、何となく、和机の引き出しを開けてみる。そこには、30年前〜今迄に、大切と思われる書簡とか、書類を入れています。


ふと、筑前博多浄土真宗普賢山萬行寺の伝道新聞に目が止まる。何気なく読んでいると、「てらしみる ほとけわがみに そいければ ただあさ夕に うれしはずかし」の和歌が目に入る」、そして、題:七里和上の教化ー文中に、( 信心決定しても、煩悩がやまない事があります。ことによれば信心決定しない以前、つまり信仰のない時よりも、ひどい煩悩が起きることがあります。)と述べられています。


まさしく、最近の小生と同じであると、はっとした次第です。続けて読みますと、(気候で言えば、余寒のようなもので、余寒は大寒と違い、長続きしません。余寒の証拠には、起こる煩悩のその下から、改悔懺悔とあやまるようになります。それからだんだんと煩悩の余寒のど合いが減少してーーーー)とあり、(これが信仰のご利益というものでりますよ。)ーーと書かれていました。


また、数本、巻紙に書かれた書類がありました。その一つを開いてみますと、60歳にならんとする時、浄土真宗の法名を頂く気持となる「法然上人の一枚起請文」を、この書斎で書いた巻紙でした。思わず、全文を読ませて頂きました。


これらの言の葉と出会い、信仰への気持ちを深くした次第です。







参考の為に、一枚起請文を書かせて頂きます。
「唐土我朝(もろこしわがちょう)に、もろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。 また学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。ただ往生極楽のためには、南無阿弥陀仏と申してうたがいなく往生するぞと思い取りて申す外には別の仔細候わず。ただし三心四修と申すことの候うは、皆決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもり候うなり。この外に奥ふかき事を存ぜば二尊のあはれみにはずれ、本願にもれ候うべし。念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。」

投稿者:孜at 08:57| 日記 | コメント(0)

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