2010 年05 月19 日
「ナンマンダブツ」と「南無阿弥陀仏」
お寺さんとの付き合いは、父の葬儀以降「仕方なし」に行ってきたのだが、それまでは「父母の役目」と言うことで、月忌参りには殆ど顔を出したことがない。次男の月忌参りも、家内にまかせっきりで殆どご無沙汰だった。
リタイア後は、父と次男の月忌参りには殆ど欠かさずに仏壇に手を合わせている。
また、般若心経の写しから初めて、御文の書き写しをしている所為か、まだまだ「門前の小僧」には程遠いくらいでしかないが、「お経」と言うものにも少しずつ興味が沸いてきている自分に気が付いた。
今までは何気なく、お寺さんが唱える通り「ナンマンダブツ」と唱えてきていたのが、御文の内容までは中々理解できないまでも、各々に意味があると説かれていることを書き写しているうちに、正確に「南無阿弥陀仏」と唱えている自分に気が付いた。
理解不足のままで意味を解説するのはおこがましいし、誤解も多々あるだろうから解説などはしないが、その当時に「より判り易く」と言う趣旨で書かれた物らしく、現代語でも理解できるところがあり、この「六字」の意味が何度か解説されているのを書き写していると、従来の「ナンマンダブツ」が無意味のような気がしてきているこの頃である。
朝晩のお参りは欠かさないのだが、時折孫が膝に乗ってきて、一緒にお参りするのだが、孫も今までの読経の唱え方と違うことに気が付いたようで、しきりに「何で」と尋ねるが、残念ながら「こう代えたの」としか説明が出来ない。
もちろんこれでご利益が変わろうはずもないのだが、朧気ながらでも「意味を判って」唱えるのと、判らないままに口伝で唱えるのとでは、唱えている自分に対する納得が違ってくるような気がする。
そんなことを思いながら、お寺さんの読経を聞いていると、どうも両方をうまく使い分けられているようであるが、使い分けの基準と言うものを機会があったら聞いてみようと思っているが、一笑に付されてしまうような気がして、中々実行できていない。
投稿者:つねちゃん
at 06 :43| 興味あること
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