馬鹿げた質問
人質として捕まった人に関して、官房長官に「身代金は払うのですか」という質問が出ていた。
何とも馬鹿げた質問ではないだろうかと、素人ながら思った。
「はい、払います」とでもいう答えを期待したのだろうか。
それとも「絶対に払いません」との答えを期待したのか、いずれにしても質問する側の見識のなさを感じてしまう。
そんな人が「知る権利」と大上段に構えてみても、傍から見ている人は白々しさを感じるだけではなく、白眼視さえするのではないだろうか。
在職時に、上司から言われたことに「逃げ道を与えて問い詰めよ」というのがあった。
そうでないと、結果として「窮鼠猫を噛む」と言う為体(ていたらく)を演じて逆転してしまうことがあるからだ。
粋がって追求するのではなく、相手を慮って議論すべきは記者に限ったことではなかろうが。
投稿者:つねちゃん
at 06 :54
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お経は面白い
リタイアして父を見送り、それから数年後に母を見送った。
父の亡き後は、一家の主として、今まで全くと言っていいほど顧みなかった「お寺さん」との付き合いが始まった。
だからと言って、特別信心深くなったわけではない。
書き写しや音読を始めた時に、真っ先にとりついたのが、在職中にも一つのブームになった「般若心経」だった。
お風呂でのCDを聞きながらの「読経」も何度か経験して、一時期諳(そら)んじることもできた。
ある時、我が家の宗派とは一線を画すのだと知り、しばらくまったく別の分野の本に勤(いそ)しんで、遠ざかっていたが、少し飽きたこともあり、今度は家の宗派にも沿うものとして、「正信偈」に取り組んだ。
これも書き取りや音読、風呂や散歩中のデジタルオーディオプレーヤーを使っての読経を通じて諳んじることができるまでになった。
で、それも2年ほど続けて飽きてきたので、また宗教と離別になった。
先月から、また舞い戻って、今度というか、現在は「観無量寿経」に取り組んでいる。
こう書くと、内容が分かったかのように聞こえるかもしれないが、自信を持って言えるのは「全く解らない」のである。
でも、なんというか「飽きが来ない読物」であることは確かなような気がする。
先日も書いたが「内容が分からないから面白い」ので、それに加えて「飽きが来ない」というものであれば、1冊の文庫本でずいぶん楽しむことができそうである。
こんな調子だから、とても「信心」とは仲良くなれそうにない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :41
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真説か珍説か
何で見たのか思い出せないが、最近見た「説」に驚くとともに、そうかもしれない、というのがあった。
白虎隊が立てこもった鶴ヶ城は、なぜ落ちたか。
歴史を知らない私は、当然「戦乱の結果」だと思っていたのだが、そうではなく、排泄物の始末に困った末だったという説を聞いた。
なるほど、山城であれば、それもある意味正しいのかもしれない、と思った。
と同時に思ったのが、原発である。
原発の排泄物の処理がきちんと整理できる目途がついていなければ、外国へ輸出しようとしても白虎隊の二の舞になるのではないだろうか。
在職中にも似たようなことが幾度かあった。
当時は「コスト対効果」を求めることが最優先で、終末処理にかかる経費などは「二の次、三の次」であり、ほとんど無視された。
あるお客様とその議論になり、私の受注はできなかった。
その後上司が取り成してくれて、受注はできたのだが、プロジェクトリーダーに任命された。プロジェクトは完成したが、最後までお客様との仲は気まずいものだった。
その後の評価は聞いていないが、さほどのこともなかったのだろうか、それとも後任以降の人が「尻拭き」をしたのだろう。
このことは、家を建てる時も同様であろう。
トイレを設置しない設計図を提案しても、昔の「厠」がある訳ではなく、到底受け入れてもらえないだろう。
こんな卑近な例だと誰もが分かるのに、原発になると分からなくなるのだろうか。
はてさて、どちらが真説か珍説か。
投稿者:つねちゃん
at 08 :13
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和歌は分からない
時折博物館などに行き、本来見たいものについての学芸員の解説は、詳細は別として、ある程度理解を助けてくれるので有難い。
ところが、そんな中で時折和歌を引用されることがある。
そんな時、大概言われるのは「よく情景を歌いこんでいて、素晴らしいですね」というのが常套文句のようだ。
残念ながら、殆どと言っていいほど、こちらとしては理解できないのである。
シャレではないが「和歌は分からない」のである。
でも、それを面と向かって言うことは、一つには相手に失礼だと思うのと、二つには「こんなことも理解できないのなら、こんな所へ来るな」と言われそうなのが怖いからである。
それをこちらが理解したものとして畳み掛けられるのには、全くと言っていいくらい閉口してしまう。
なんでもそうだが「美しい」と感じたものは、他の人が何と言おうとも、自分が「美しい」と気持ちよく感じればいいのではないか。
逆もまた真なりで、特にアブストラクトと称される作品には、あくまでも私の評価であるが「見るに堪えない」物も無くはない。
説明の押し付けや、自分が知っている和歌などを引き合いに出されるのは「もういいです」と断ることもできるのだが、断りにくいのは、取材に来てのインタビューである。
「素晴らしい作品ばかりですねぇ、どんな作品が印象深かったですか?」と聞かれて、他に人がいない場合、逃げることもできず、曖昧に適当に答えるしかなく、内心はハラハラドキドキなのである。
こうなると、まだ見ていない作品を見ることも憚られてしまい、そそくさと出てしまう、そんなことが今まで3度ほどある。勿体無かったなぁ。
でも、この歳になると、あまり相手のことを考えなくなっている自分に気づいて、それはそれで申し訳なく恥ずかしくなってしまう。
可愛い年寄りである。( ^)o(^ )
投稿者:つねちゃん
at 09 :53
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一票の格差
政治関係の話題は、このブログではあまり取り上げたくないのが本音である。
とはいうものの、いままでそれなりに触れてきたという事実はあると、ご指摘いただくだろうが、その時は「これで良いのか」という趣旨の「怒りの捌け口」だったと思っている。
最近になって矢継ぎ早に表題に関する判決が出されてきた。
「違憲」だ「(選挙は)無効だ」という判決には、三権分立なのだから、どちらかの「ごり押し」では困るので、真剣に「国民のため」を思って(いつも言うことだが)期限を決めて議論し、結論を出してほしい、と思っても、それによって結果として国会議員になれない人がメンバーでは、期待するほうが無理なのだろうか。
それはそれとして、「一票の重さ」を「完全平等」にして「得する人」はどんな人だろうか、と考えられたことがあるだろうか。
直接自分が投票する人には関係ないのでは、と思っていらっしゃるのではないだろうか、ということが気がかりになる。
わが富山県は現在約100万人の人口だが、そのうち有権者はどれだけだろうか。
そして、話題になっている都市の人口と比べてみると、こちらが一人選出すると、それらの都市部がざっくりと言って10人近い人を選出することになるのではないか。
で、議論したところで、みんな自分が可愛いから、地元優先で活動され、都市部はますます厚遇され、地方はますます疲弊化するのは、目に見えていることだろう。
たとえ、都市部の投票率が10%で、地域の投票率が100%であっても、「一票の重さ」には関係ないの”ある。
都市部でコメや食料を作っているのだろうか。
隣国の都市部と地方人間の「人種差別」と似たようなことが、このまま放置していれば、早晩同じことになるのではないだろうか。
一市民としては「心配するだけ」でしかないのだが。。。。。
投稿者:つねちゃん
at 08 :36
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人工光合成
自然資源の少ないわが国だけではなく、最近いろいろな新エネルギー源が注目されている。
メタンハイドレートなどは、我が国の領海内で、今後100年の位貯蔵量があると聞くと、素人ながら「ぜひ早く商用ベースに乗せてほしい」と願わずにはおれない。
尤も、その半面で、「取り出した後を海水で埋めるのだとすれば、そこからの地盤沈下で大きな地震につながるのではないか」との心配もある。
そんな中、先日TVで見た表記の技術については、各国での競争状態にあるとは言うものの、それこそ「国際間の枠を取り除いて」挙って研究開発を進めるべきではないか、と思った。
科学的に詳しいことは「理科」という科目が嫌いだったので、よく分からないけれど、草花が「光合成」をすることによって、身内には「成長のための糖分」を、排泄物として「人間をはじめとする動物に必要不可欠な酸素」を、そして、草花自体の「食べ物」としては、太陽光と土中の水分と、地球温暖化の原因になっていて、人間初め動物の排泄物としての「二酸化炭素」だというのだから、これはWin−Winの関係である。
その上に、草花の排泄物のもう一つには、「エタノール」があることが分かり、それを新エネルギー源にしよとするものだそうである。
エタノール、と聞くと、私なんかはすぐに「美味しいお酒」を連想するが、どうも違うようである。
ともかく、これなら上記のような「地盤沈下」の心配もないし、中国からの迷惑な(これは中国自体が迷惑なのだろうと思うが)PM2.5などの排出抑制にも貢献するのではないだろうか。
何しろ、論理的には「無限に使えるエネルギー源」だということが、何とも聞いていて楽しいではないか。
時には、こんな話題にも興味を持つ私である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :54
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わらべ歌の怪
最近、似たような話題に、二つ立て続けに出会った。
表題のとおりなのだが、わらべ歌本来の意味、と言う怪情報である。
私だけが知らなかったことなのだろうが、次の二つである。
「ちょうちょ」と「ずいずいずっころばし」である。
諸姉・諸兄はすでにご存知だろうが、なんだか訳を知ると、今から保育園に上がる孫の前では「決して歌わない」と心に決める。
もっとも、いずれも「ひとつの説」なのだろうから、「絶対無二」ではなく、そんなに硬く考える必要もないのかもしれないのだが。
どうも、やはり昔からの「助平」だから、なおさら「(女の)孫には歌わせない」と思ってしまうのであるのは、男の勝手な論理だと言うことは十分に理解しているのだ。
歌の解説は、各々興味の元に調べていただければいいので、ここではしないが、どちらにしても、「猥歌」と言う類のものである。
でも、こんなことって、他にもあるのではないだろうか。
何にも知らないで、歌っている歌は、やはり罪深いのであろう。
「お前どこ行く/青筋立てて/生まれ故郷へ/種まきに」と言うようなわかり易い文句の猥歌のほうが、微酔を過ぎて大声で歌うような宴会余興のほうが好きである。
また、昔からの「都都逸」にも、「三千世界の/カラスを殺し/主と/朝寝が/してみたい」と言うのも意味が深いが、理解すると「なるほど」と思わせるものである。
そういえば、リタイアしてからと言うもの、こんな歌を歌う宴会とは、まったく縁がなくなってしまったなぁ。
酒を飲んで歌うと言えば、「カラオケ」ばかりで、そこには平板な歌詞ばかりが並んでいるようで、好きな方には失礼だが、私はあまり好まない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :16
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エステー会長の言葉に同感
定期購読している新聞というメディアは、地方紙1紙だけである。
別に最先端を行っている訳ではないが、リタイアする相当前から、主に外国の技術動向を知る必要があったことから、ネット新聞をよく見るようにしていたから、リタイアしてから、見る情報分野は違ってきているものの、結構ネット新聞を活用させてもらっている。
そんなことから、いろいろ楽しく考えさせられたり、同感を伴う記事に出会うのが毎日楽しい。
そんな中での一つが今回のテーマのである。
情報源は日経の記事だった。
四面楚歌の状況から立ち直った会社の会長の言葉である。
最近の元気のなさの原因は「買いたいと思わせる商品を考えられない」。
まさに諸手を挙げて同感である。
先日のこのブログでも、似たようなも趣旨で書かせてもらったような気がするが、加齢による購買意欲がなくなったのは事実だとしても、それ以前に「買いたい」と思うようなものがないのではないだろうか。
どんな分野でもそうだろうが「革新的な商品」を考えて、提案しても、大概が「悲観論」が先行して、「駄目だろう」ということになってしまうのが現状である。
これは勿論今に始まったことではない。
在職中に「全国支社、支店をLANで結ぼう」と提案したことがある。
「LANの「L」は「Local」の意味を分かって言っているのか」と一笑に付されてしまったが、その後実現したのである。
今それがどのような形で残っているかどうかは知らないが、少なくとも現在のWindowsUpdateと同様な思想だったのである。
「やりたいことを実現する」というの同様に「買いたいと思わせるものを作る」と必ず売り上げアップにつながるのだ。
勿論独り善がりに思い付きばかりではダメなのは言うまでもないのだが。
投稿者:つねちゃん
at 08 :33
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やっぱり私にはいらない機能ばかり
リタイアする前は、いわゆる「新し物欲しがりや」で、場合によって人から小銭を借りて買ったものである。
ところが、リタイアしてからは、もっぱら「実用本位」である。
先日、OB会に参加して、少し愕然とした。
携帯を持つようになって随分になる。
機種も随分古いものになってしまったので、周りのかつての上司や同僚から、「あれだけ『新し物欲しがりや』だったお前が、まだそんなものを持っているのか」と言われてしまった。
それで、最近の「スマホ」に取り替えたら値段的にどうなるのかを聞きに行った。
ネット接続の幅が広がる、いろんなアプリが利用できるなどなど確かに便利さは今より数倍にもなるのは理解できた。
でもしかし、そんな便利な機能が無料で使える訳では決してない。
しゅっちゅう使う機能であれば、仕方が無いけれど、そうでない機能でも「基本料金」が掛かってくるのである。
たとえば、ナビ機能である。確かに目的地を歩く感覚での距離や目標物で示してくれるので、便利この上ない機能である。
また、音声による問い合わせにかなり的確に答えてくれるので、まさに「何でも知っている人」を常に従わせているようで、困ることは少なくなるだろう。
でも、その機能を、基本料金と使用料相当に使うだろうか。
使ったときに、使っただけ、と言うのならば、まだ納得できるが、「使っても使わなくても」掛かるのが「基本料」である。
行動範囲が狭くなった今、月に350円分(価格は色々あるようだが)知らない土地徘徊することは無いだろうし、音声による質問をすることがあるだろうか。
表題は「いらない機能」と書いたが、それに見合うだけの料金として、と付け加えるべきだろう。便利さだけは確かに間違いないのだから。
投稿者:つねちゃん
at 08 :38
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「創る」と「作る」は大違いなのだが
表題は、先日何かの記事で見たことだが、読んでいて「確かにそうだ」と思い当たった。
わが国ではまだまだコンピュータは黎明期だった頃に入り込んだ世界だが、一つのシステム構築をやり遂げて、それなりに議論ができる自信を持った頃の話である。
確か小説だったと思うが、笑い話だったかもしれない。
コンピュータによって、企業活動がドンドン省力化されて、ついには社長そのものが「不要なもの」と判断されると言うものである。
そんなことを起因としての議論だったが、「コンピュータと人間の違いは何か」と言うものだった。
結論から言うと、表題そのものである。
コンピュータに代表される「機械」は突き詰めていけば、物を「作る」と言うことは多分人よりも正確で高効率で「作る」ことができるだろう。その上で、一部の不良品が出れば、徹底的に「真の原因追求」をして改善がなされるだろう。それもいい意味でのフィードバックが自動的な為され、操作する人間が意識せずにドンドン改良されていくだろう。
勿論、そのことが「悪循環に陥る」ことも否めないのだが。
それに比較すると、人間は効率化や正確性の改善にはどうしても真剣になれないし、真の原因となると、とても考えが及ばず、どこかの飛行機ではないが「人為的ミスだから、今後注意しよう」と言う事で片付けてしまい、結局再発防止にはつながらないのが現実だろう。
話を本題に戻して、「作る」と言う意味では、残念ながら機械に任せるしかなくなるだろうが、こと「創る」と言うことに関しては、機械には絶対にできないのである。
リタイアして10年余りになるが、例えiPS的な機械が出来たとしても、絶対にできないと思う。
価格低減してより多くの利潤を生むために、低賃金の外国人労働者を雇ったとしても、彼、彼女らは、機械ではない。
必ず「創る」世界に侵食してくることだろう。
そうならないために、日本人としては、絶対にその部分は秘密裏にしておかなければならないと思うのだが。
投稿者:つねちゃん
at 08 :30
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お掃除ロボット
最新の家電を紹介してくれる番組が好きである。
今やPCも家電の一種であり、主夫も10年を過ぎると、白物家電のほかの家電にも興味が出てくるし、コンピュータと照らし合わせれば、ユビキタス時代にもその知識が必要になってくるから、学習もあるが、何しろ楽しい。
先日、表記の商品が紹介されていて「これは買いだな」と瞬間思ったけれど、直ぐに駄目だと判断した。
男性諸氏は大概経験がおありだろうが、「掃除機の邪魔」な存在になったことが。
リタイアして以来、週1回の掃除は私の役目になった。
最初のうちは「嫌々」だったから、自分でも後でわかるくらい「四角い部屋を丸く掃く」状態だった。
ロボットは確かにしっかりとしたセンサーに寄り、確実に綺麗にはしてくれるが「邪魔な物を除けて、掃除した後で元へ戻す」ことはしてくれない。
結果「四角い部屋を丸く掃く」ずぼらな道具でしかない。
どうもこれは、奥方様から「掃除の邪魔だ!」と怒鳴られたことのない、その癖桟を撫ぜて埃を探すような潔癖症の男性が考えた道具ではないだろうか。
また、その製品に女性の意見を全く取り入れない、男性社会(会社)の製品ではないだろうか。
残念ながら「四角い部屋を隅々まで、掃除するために、そのとき退けて、終わったら元の所へ置いてくれる」くらいの機能がなければ、捨て去られる道具でしかないのだろう。
「思いついたら直ぐにやってみる」と言う事は大切だが、考え足りないという指摘に耳を貸さない、と言うのは、一時期私等が馬鹿にした「パソコンボーイ」の域を出ていない物作りになっている。
投稿者:つねちゃん
at 08 :55
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「私が」と「私の」では大違い
黒田節の替え歌の「猥歌」として、よく知られた文句に次のようなのがあるのは、ご存知だろう。
「裏の畑に/山芋植えて/太くなれ/長くなれ/毛も生えよ/そしたら「私の」すり鉢で/とろろになるまでこすりましょう」
この「私の」を「私が」に変えると猥歌でもなんでもなくなる。
ということは、適切な場所で言い換えられる、と言うことである。
「私が」であれば、子や後輩の成長を祈り、行く末は、私が世間の荒波に負けないように色々と教えて立派に成長させてあげましょう、との理解になるだろうから、「祝い歌」であろう。
「私の」と言うことになると、「私の持ち物で」と言うことになり、「すり鉢」と言うと、女性の局部の隠語にもなっているから、山芋の正体が、なにやらそれに見合うような代物に思えてきて、「猥歌」と言う次第になるのだろう。
さてさて、日本語と言う物は、面白い物だと言うことが、最近改めて気が着いた話題である。
今は余りTVでやられないが、寄席演芸の一つで(正確には覚えていないが)「付くと付かぬで大違い」と言うゲームと言うか余興があるのをご存知の方も多いだろう。
どちらかは「なんでもない」ことなのだが、反対側は「飛渡も無い」様なことにもなる。
当時は、それをまねて、余り卑猥にならない程度に、職場の飲み会などで披露もして、爆笑だったり、哄笑だったり、冷笑だったりを受けた思いがある。
今は余り思い出せないし、思い出すのは「卑猥極まりない」物が一つ二つ思い出されるくらいで、とても紹介する訳には行かない。
結果は紹介できないが、設問(?)の例は「濁点が付いたり付かなかったり」とでもしておこうか。
こんなことを終日考えて悦に入るのも楽しいではありませんか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :34
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相関指数
表記の言葉は「相関関係」と言う言葉で覚えておられる方が多いのではないだろうか。
「指数」と言うのだから、その関係を「数」で示(指)している物であり、「1」であれば、確実に「こうならばこうである」と言えるのが基本である。
統計学や数学の世界では、それは事実なのだろうが、「人間の感情」と言う点からすると、どうもそのまま信用してはいけないと言うことを在職中に聞いたことがある。
何度か紹介したが、品質管理という、他人様から嫌われる分野にいた時には、兎も角「数値、数値」で追いかけまわり、「従来のK(勘)K(経験)D(度胸)ではなく、K(観測)K(記録)D(データ)で示せ」と「何とかの一つ覚え」で息巻いていた事があった。
そんな時、ある尊敬する上司から言われたことだった。
相関指数が70%(0.7)と言うことだったら、君はその関係が「強い」と考えるかね」との設問から始まった。
勿論即座に答えた「試験で70点を取ったら少なくとも『合格』と判定するでしょう。その程度の確率で『強い』と感じます」と。
数学的にはそれで良いとしても、現実的には、その二乗で物事を判断すべきだと言われた。
正直、中々素直には信じられなかったのだが、それ以来も色々な数値を扱うことが続いたので、時々それを加味して考えてみると、意外に上司の言っていることに近く、私が直感的に思っている事から外れたことに気が付いた。
学問的にそれが合っているかどうかは、調べなかった(多分調べて説明しても、「付け焼刃」で直ぐに化けの皮が剥がれると思ったからである)が、実感として正しそうで、そんな感覚で説明すると案外受け入れてもらえたのだから、今でも結構信頼している。
0.7と言うのは、二乗すれば0.49となり、半分くらいは当たっているのかな、くらいに考えた方が良いのだろう。
何故こんなことを今更思い出したかというと、孫から「降水確率」と言う数字について聞かれたからである。
でも、結局説明したのは「過去30年くらいの間の天気予報から割り出しているのだよ」とだけしか説明できなかった。
まだまだ小学三年生には、二乗の感覚は的確に説明できない。
でも、また楽しい「調べること」が出来たことは素直に嬉しい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :09
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世論調査
これまでにも何回か紹介してきたが、在職時に「品質管理」と言う分野を経験してきたので、「統計」が言うことのウソ/ホントは、それなりに理解しているつもりだった。
それでも、NHKや大新聞社などの「世論調査」の結果には、それなりに関心を持って、結果を「鵜呑み」にしていた。
ところが、最近になって「なんだか違うのではないか」と思うようになったのは、遅きに失するかもしれないが、気が付いた。
と言うのは、「貴方は現在の政治を信頼しますか」と言うことに関する結果である。
想像のとおり「期待していない」「余り期待していない」「全く期待していない」等を合わせると、かなり悲惨な政治状況だと「知らしめる」数字が出ている。
これは、以前「世論調査の遣り方」について講義を受けたのとは、まるで違うことからきているのではないだろうか。
講義の内容は大分忘れてしまったが、「設問内容の精査」から始まって、「対象者の精査」にかなり力を入れていることだった。
ところが、最近は「乱数で選別しております」と言うような状況で、「全く無作為である」ことを強調しているが、この辺が統計の誤魔化しである。
上記の項目で、無作為に抽出した電話番号に掛けて、多分成人であるかどうか位は確認しているのだろうが、「投票をしましたか」と言う確認はしていないのではないか。
残念ながら、現在国政を初めとして、投票率が50%を超えることは稀な状況で、一律一辺倒で質問したところで、得られる結果は全く「出鱈目」と言っても過言ではないだろう。
人は常に「不満」を持っているからそれを解消するために何がしかの努力をして、挫折もし、成功もして成長しているのだから「不満ですか」はそれが政治ではなくても「ハイ」と答えてしまうだろう。
ましてや「ネット調査では」と言うのもいい加減である。
興味本位で答えている人間がどれほどいるだろうか、勿論真剣に考えている人もいないではないが。
統計と言うものの基本は「多分同質だろう」と言う母集団からサンプリングする」のが基本である。
その母集団を「乱数」と言ういい加減な物で割り出すと言う安易な物は、やはり信用できない。
投稿者:つねちゃん
at 06 :39
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節約のための節電であって欲しい
福井県・大飯原発の再稼動が事実上認可されて、電力会社が挙って叫んでいた「節電」が緩やかになりそうである。
それはそれで良いのかも知れないが、電力供給量の不足に対する「節電」は止めて、やはり家計節約のために心がけたい。
子供の頃、親から「勿体無い」教育を受けていたのは、確かに当時の家計は決して裕福には程遠いものだったせいもあるだろうが、何に付け「節約大事」という事だったのだろう。
特にそんな中でも「電気は小まめに消せ」とよく叱られた記憶が、今でも生々しく思い出される。
いわゆる「出来ること」で「必要でないこと」は徹底してやるように躾けられたのである。
勿論、だからといって今の自分がそうしているか、と問われれば、甚だ心許ないのだが。
話を本題に戻して、あれだけ声高に叫んでいた「節電」が原発再稼動の容認ということになると、途端に消えはしないまでも下火になってきているのではないだろうか。
多分、これからの夏は冷房がそれなりに強くなり、一方で「快適さ」を求めながら外では「劇熱地獄」という体たらくを示すのではないだろうか。
また、ネオンなどの消費は、不景気の中で何とか客を呼ぼうと煌びやかになるのではないだろうか。
電力会社としても、「発電した物は(貯めて置けないのだから)消費して欲しい」と色々な消費策を薦めるのだろう。
でも、やはり「家計の節約」として「出来る範囲で出来るだけ」の節電は、常に忘れないで実行していきたい物である。
投稿者:つねちゃん
at 06 :45
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「仕様通り」と言うバグ
最近購入した家電製品で「こうならないのだが」と言う質問をメールでした結果、返ってきた答えが「それは仕様通りです」というものだった。
諸姉・諸兄も不具合だと思ってメーカーや家電店に同様な問い合わせをなさったことがあるのではないだろうか。
大体は、不満ながらも「ふぅーん、そうなんだぁ」と渋々納得するしかないなと思ってしまうのであるし、私もこのトラブルに遭遇するまでは、殆どの場合がそうだったような気がする。
家内と娘に数年前の「父の日」にプレゼントとしてもらったお風呂で聞けるCDプレーヤーと言う物が、CDのケースを留めるところが少し壊れて、防水性が乏しくなったことと、1枚のCDだと精々10数曲しか入らないので、もう少し多くの楽曲が入る物をと言うことで捜し求めていた。
で、MP3方式で最大32GBまでのメディアが使える「防水型」音楽プレーヤーをネットで見つけたので、値段も手頃だったので注文した。
私の好きな「ランダム演奏」が可能だったのも、私の好みに合っていた。
ところが、いざ使ってみると、全部の曲を対象としたランダムで、折角歌手ごとやジャンルごとに整理してフォルダーに納めてみたのだが、全く意味を成さなくなってしまっている。
曲にも寄るが、大体1曲2-3MBくらいなので、最大だと1万曲ほど入る計算になる。
それを全体を対象にしたランダムしかサポートしていないと言うのは、やはり「使い勝手」を想定していない「仕様」なのであろう。
在職中に言われた「そんな仕様自体が間違っている」との指摘そのものだと思った。
黎明期に携わった計算機では、メーカーの仕様が犯し様の無いものだったのだが、長ずるに至って「それはおかしい」と言えるようになるとともに、そういわれることにもたびたび遭遇した。
これからも「仕様通り」と言われたら「少なくともそれは私の希望する仕様とは違う」くらいのことは良い続けたいとおもっている。
勿論直ぐに直ることは期待できないけれど、「Here I am」と言い続けよう、それが実現することがあれば、なんとも楽しいではないか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :50
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安いPCの謎解き
現在我が家にあるPCは、そのOSから分類すると、WinMe、WinXPそしてWinVistaである。
最後のVistaを買ったのは、どうしてもTVを見るデスクトップが欲しくなり、以前のものでは動作が遅くて、耐えられなくなったからである。
尤も、私がではなく、孫が「動きがおかしい」と言い出したのが切っ掛けだったので、爺馬鹿としては「そうかそうか」と二つ返事で新調したものである。
そろそろWin7や8がアナウンスされており、小銭貯金でどうにか賄えそうな価格になりつつあるので、7はパスして、今年末に出るであろう8に的を絞っている。
そんな中で、受講生の方がお持ちのPCもそろそろいろんな意味で限界になりつつあり、相談を受けている。
で、今までは余り見なかった折込チラシに目を通すと、ナント「0円」とか「500円(ワンコイン)」という表示価格のものがかなりある。
よくよく小さな文字で書かれている「弊社の〇〇通信に加盟の場合」と言うのが読み取れる。
これで引っかかってきた客は「飛んで火にいるナントやら」であろう。
受講生の人には「決してこの価格に惹かれることの無い様に」とアドバイスしている。
謎解き、と書いたが、要は通信会社からのペイバックがあるからで、途中解約でもしようものなら、想定外の違約金が取られる仕組みである。
一時期携帯電話でもこのようなことがあったと記憶するが、現在では規制されているのか然程のことは無いのだが、PCでも早晩このようなことになるだろう。
在職していた会社は、全身が「公社」だったから、このようなビジネスは「決してやってはならない」と研修を受けた。
現在はそのような精神も殆ど無くなりつつあるようだが、やっぱり「騙し商法」に近いことは止めて欲しい物である。
尤も、最近の政治情勢でも、似た様な事が散見されるのも残念なことである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :28
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提供者の勝手な論理
実は似たような投稿を、このテーマを思いつく前にして、採用されているので、それは「追記欄」に紹介させていただく。
最新の携帯電話各社の新製品発表からから、従来の「電話優先」機能タイプが消えてしまったとの報道に驚いた。
そのくせ、提供者のコメントには「シニア世代の人にも使ってもらえるように」と異口同音の合唱である。
私自身は、在職中その手の職種(通信とIT)だったので、「新型機器」には結構目敏い方だと思っている。
だが、月あたり数百円で映画が殆ど見放題、と言われても、映画はやはり「映画館」で観たい。
一部の報道には、もう何年か後には「映画館」自体が無くなるとの予測があることも知っているのだが。
機能は確かに便利なのだが、最初は物珍しさに使うだろうが、対価に値するほど「使うか」と言われれば、多分そんなに使わない。
そんなことから、今のところ電話機能のほかに、予定表、メモ、歩数計などの「通信費の掛からない」機能だけで充分である。
使うか使わないか判らない機能のために、月額料金を払う気持ちは全くと言って良いほど無いのである。
「いつでも使えます、使った時に使った分だけお支払いください」というのであれば、まだ納得もするのだが、「使わなかったのは貴方の責任ですから、料金はお支払いください」と言うのでは、「やらずぶったくり」と同じではないか。
まぁ、そう思うのだから、私は現在の機能で充分である。
追記をみる
投稿者:つねちゃん
at 06 :32
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新幹線の防音壁
父が当時の国鉄勤務だったことも影響があるのかもしれないが、子供の頃から「汽車」が大好きだった。ちなみに、高校通学は勿論「汽車」だった時代である。
余談は追記欄に書かせていただく。
こちらでも新幹線の工事がそろそろ終盤に掛かりつつあるのだが、線路の両側に最初はなんだか理解できず、線路近傍の人に教わったのだが、防音壁が張り巡らされている。
確かに近傍の人には騒音でしかないのだろうから理解は出来るが、延々田んぼの真ん中を走っている所にもそれがあるのが理解できない。
電車(私の場合は飛行機でもだが)の旅の楽しみの一つに「窓外の景色」がある。
防音壁はそれを全く無くしてしまう。
これで飛行機に勝とうとするのは、果たして如何なものだろうか。
上述したが、飛行機からの眺望と電車からの眺望は全く違うと思っている。
なんと言っても「今は山中、今は浜」と言う感覚が飛行機に求めることは出来ず、電車ならではの物である。
難しい話だろうけれど、「窓外の景色が楽しめる防音壁」と言う物が開発されないだろうか。
防音壁について、もう一つ理解できないのが、「垂直の物」と「逆『しの字』型のもの」があることである。
素人考えながら、同じ物が並ぶと共振する事を防止しているのではないかと思うのだが、それならそれで、電車の中の人にも、外側で生活する人にも眺望を楽しめるようなことは出来ないのだろうか。
最近の飛行機には、子供が喜びそうなポケモンなど、色々な装飾が施されていて、人気を集める一つの要因になっているのではないか。
新幹線の形には「より高速に」と言う技術が多数組み込まれていると聞くが、それと共に「湘南電車」の色の意味合いも持たせるような工夫も大切なのではないだろうか。
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投稿者:つねちゃん
at 08 :47
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無責任な「政治評論家」
連日の「政治ネタ」になるが、昨日も行ったように「ノホホン」とした気持ちでお読みいただければ幸いである。
なぜなら、幾らここで(時には新聞投稿で)喚いて見たところで「人は変わらない」のだから。
率直に言えることは「貴方もすぐに政治評論家になれる」と言うことである。
先日、同級生近傍(年齢がプラスマイナス2歳くらいの人を私はこう呼んでいる)の人たちと話す機会があり、たまたま私の投書を読んでくださっている方が居て、「政治評論家になればいいのに」と言う話題になった。
即座に答えたのが、上記の言葉だった。
残念ながら、私の狭量な視野と知識では、「まともな政治評論家」にはなれないと自覚しているし、とてもあのような「厚顔無恥」な連中に肩を並べる気にはならない。
では何故相手にそう言うかというと「批判ばかりをしていれば、そのように聞こえるから、尤もらしくなるよ」と言うことであり、これも「揶揄」の一種であると、笑い話にしてしまった次第である。
事ほど左様に、今TVやマスコミで、それを生活の糧にしている「政治評論家」の言葉をよく吟味して読んだり聞いたりしてみれば、「自分勝手な側面だけからの評論」にしかなって居ないのである。
本当にそう思うのであれば、自ら進んで政治家になればいいのに、決してそうはなさらない。
落語の「かぎや」の1節に声を出しては直ぐに人の影に隠れる野次馬を揶揄するところがあり、私は好きである。
それほどまでとは言わないが、現在の殆どの政治評論家がそうである。
かつて、マスコミを賑わして政治家になった人は、今はいずこに生息されているのやら。
投稿者:つねちゃん
at 06 :30
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