2010 年06 月18 日
ありがとう 考える
在職中は「努めて」ありがとうと言う言葉を発するようにまさに「努力」していたのだが、中々素直に出てこなかったと言うほろ苦い思いが残っている。特に「名前だけ上司」(余談になるが、こんな人間がまだまだいた頃の話であり、民営化によって多分殆ど駆逐されたであろうから、現在では皆無であろうと思うし、そう願いたい)や同僚、ましてや部下には中々言い出せなかったと言うのは、多分私だけではないのではないだろうか。
例え言ったとしても「有り難う」と言う「あなたのせいで私に難がもたらせられ、それを解決した事で成長できた」と言う風にまさに「有難迷惑」という感じだったのではないだろうか。
リタイアして良い意味で「競争相手」が居なくなった現在で気がついてみると、どんな人に対してでも素直に「ありがとう」と平仮名で表記できるようになっている自分に気がついた。
気がついてみると、何とも愉しく愉快である。
確かに「有難い」事に遭遇することは、少なくはないが、それだとて上記の如く「成長させてくれているのだ」と素直に思えば、何も小難しい漢字表記で無くなってしまう。
以前にも似たようなことを書いたが、まず朝起きて「今日も目が覚めて生きている」と思える事に「ありがとう」である。
介護で少し手が掛かる母に新聞と薬を服用させることも、自分が元気で居られるからであり、孫にも元気で「おはよう」の挨拶が出来ることも、形は兎も角新鮮さだけが取り柄の家庭園芸での収穫、味噌汁を初めとして出来る範囲での調理で自分流の味が楽しめる事、一つ一つに「ありがとう」である。
今日から明日に掛けて、企業内研修所での同期生との懇親会があるが、物故者を偲びながらも1年ぶりに出会える友人との歓談にも「ありがとう」である。
勿論不平不満が無いわけではないが、時々こんな風に考えると、ひと時「至福の時」が味わえて、それにも素直に「ありがとう」と言えるのではなかろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :48| 日記
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