どっこい、まだまだ生きている
昨年末に「最後のブログ」を書いてから、約1箇月である。
やめてからの反響が意外なところから出てきているのに、驚きながら少し戸惑っている、というのが本音である。
ここで、私の実名は明かしていないと思っているのだが、どうしてか「漏れ知られている」ようである。
別に隠すほどのことはないのだが、タイトルの通り「徒然」としているので、「これが私の実態です」などと意気込んでいなくて、退屈しのぎに「思いついたまま」を書かせていただいていたのである。
それなのに、「どうしてやめたの」「いつから再開するの」「HPからのリンクも張られなくなったのでどうすれば行きつけるか分からない」などと、知っている人からはまだ分かるけれど、全く知らない人から、知人を通じて質問され、その知人自体がこのことを知らなかったということもあった。
もちろん「うれしい悲鳴」を上げるほどではないが、なんだか落ち着かなくなってきていることは、自分自身がよく分かっている。
で、来月から「月間テーマ」を決めて過ごしていこうかと思っています。
コーナーを新設することはできないようなので「続き」になりますから、少しぎくしゃくするかも知れませんが、またおつきあいください。
来月のテーマは「お風呂」にしようと思っています。
冬場のお風呂は「極楽、極楽」とついつい口から出ますよねぇ。
投稿者:つねちゃん
at 09 :09
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「使い切る」
一連のブログも、この回で一度締めさせていただきます。
長い間お付き合いいただき、誠に感謝感激で、厚くお礼申し上げます。
で、最後らしく、標記の題材にしました。
これは、たまたまタイミングが合ったわけで思いついたもので、以前から考えたものではありません。
自分流調理で得意なものに「炒飯」があることは、何度も紹介させていただきました。
一昨日作ったものは、まさに使い切りオンパレードでした。
その中でも、ヤッター、と快哉を叫んだものが、「梅干しの汁」です。
夏頃に買って、当初は「健康飲料」という訳ではないけれど「口中清掃」と「爽快感」での薄めて飲んでいました。
それが、和風炒飯の塩気、として使っていたものが「使い切った」のです。
それだけではなく、後継として母が残して昨年気が付いた梅干しの汁も絞りました。
梅干しとしては、見つけた時から、今年の我が家産のものと交互に味わっていたのですが、梅の実と紫蘇に漬かりきって、出すのが難しくなっていたところだったので、ちょうど「渡りに船」だったわけです。
キャベツの残りも使い切りました。これは中々難しいのですよ。葉の部分は普通なのですが、芯の部分は今まではほとんど捨ててしまっていたのですが、細かく刻んで、油に大蒜の味をつける最初の時から弱火で時間をかけて炒めると、ちゃんと「使い切り」できます。
ことほど然様に、物は使い切りると、無駄なく生ごみの減量にも効果的です。
尤も、美味しさで体重は増量傾向になりますのが、玉に瑕ですが。(^◇^)
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投稿者:つねちゃん
at 09 :06
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一番怖がっているのは
北朝鮮のことについては、今まであまり興味がなかったが、自分の義理とはいえ叔父さんを処分した、ということには、さすがに驚いた。
これを人権問題だとする意見は別として、少し違う見方をするというのはどうだろうか。
今まで、議論し、同調もしていた叔父さんとの間が、誰かの讒言か噂話などで、「あいつは許せん」ということになってしまっての決断だったのではないか。
となれば、今後も別の人の「囁き」で紆余曲折するのではないだろうか。
ということであるとするならば、周りの人よりも誰よりも、一番怖がっているのは、本人自身ではないだろうか。
まったく次元を異にするが、在職中同僚の課長がノイローゼになり出社拒否症という事態に陥った。
なぜか私にその対応が回ってきたが、こちらとしてはそんなことなどまるで関係がないと思われていたのだろう。
単身赴任中で、無理やり陽気に振る舞い、細かいことは「笑い飛ばす」ことで自己解決してきた内心などは、誰も忖度してくれないし、口に出して訴えたところで「冗談だろう」と言われてしまう(実際にそんなことがあった)のだったから回ってきたのだろう。
だいぶん良くなった頃に、彼から聞いたことが今回のことに少しだけ通ずるような気がする。
「果たして僕がやってきたことは正しかったのだろうか、それにまったく自信がなくなってしまった」ということだった。
いくつかのお隣さんばかりでなく、トップとしては常に彼と同様な心配をしながら行動してほしいものである。
決して「私がやっていることは、常に正しい」と思うだけだと、相手には「粛清」という手段しか見えなくならないか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :16
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新しい鉛筆
折込チラシの裏などを使って「書き写し」を行っていることは、何度か紹介した。
その時に使う筆記具としては、紙質に合わせて、ボールペン、万年筆(在職時ほとんど使わなかったデスクペン)そしてまだ使える長さの鉛筆である。
父の残した分や息子、私自身が使い残したものである。
短くなっても長さを補正する器具を使って、5cm以下になるまで使った結果、ようやく先日すべて使い切った。
短くなったものは、断捨離の精神よろしく「捨てるべきもの」なのだが、なんだか可愛くて抽斗の奥にしまっておいてある。(この辺が軟弱だなぁ)
ということで、何十年ぶりかで「真新しい鉛筆」を下した。
まるで数十年ぶりかで味わう小学生気分である。
上二行は同じことを言っているが、芭蕉が松島を詠じたかのごとく、言うに言われぬ気持なのである。
ホールペンは何本も使い切ったし、シャープの芯も何度となく使い切ったけれど、それとはまったく違った感情である。
ボキャブラリーが少ないので、適切な表現ができないのがなんとももどかしい。
尤も、これも父が残したものである。
5本が箱に入って残っていたのである。
これも感謝しながら、5cm以下になるまで大切に使おう。
紙質がそろそろ鉛筆が使えないものになるので、来年まで十分に使えそうである。
楽しいなぁーーー。
投稿者:つねちゃん
at 09 :20
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ケチはやっぱり楽しい
先日、チューブ式の練り歯磨きが出なくなった。
捨てようとすると、娘から「振ってみれば」とのアドバイス。
蓋をしっかりとして、振ってみた。
成程まだかなり余っていたと見えて、優に20回分くらいはあったろうか。
それでも、もう出なくなったので、捨てようとすると、今度は家内から「底の方を切ってみれば、出口のほうに溜まっているよ」と言われた。
確かにそうで、間違いなく現在まで3回は使えている。まだ数回は使えそうだ。
(本日時点でこれも使い切っている)
ナント、これだけで約1か月以上(私のずぼらな性格と習慣で毎日の歯磨きはしていないから)長く続け使えられるのである。
細々とした年金生活者で、ずぼらながらも「生活必需品」がこれだけのことで長く使えるのであれば、随分今まで「無駄遣い」してきたものである。
1本の練り歯磨きで、今までどのくらいの期間使っていたか、測っていないが、それに対しての約1か月延長は何パーセントくらいになるのだろうか。
仮にそれが3%だとすれば、来年からの消費税上げも、ことこれについてだけは「恐るるに足らず」であろう。
決して消費税アップの推進者ではないが、生活防衛の点で、こんな「ケチ」精神も楽しくはないだろうか。
まてよ、在職中にもこんな「知恵を出せ」と叱咤激励されたのではなかったか。
チューブだけではなく、人間の頭脳というものも、「絞り出す」ということを考えれば、まだまだ使える知恵が出てくるのではないだろうか。
そんなことを思うのも、楽しいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :44
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ヤッカミだけれど
自分にはそんな才能がないから、どこまでも「ヤッカミ」なのだけれど、本当にこれでいいのだろうか。
どこかの製紙会社の会長さんが、出入り業者からのお金で遊び呆けて、犯罪に問われて、服役中なのか終わったのか知らないけれど、今までの放蕩の限りを本に著して、増刷に次ぐ増刷だそうである。
著作の印税というのはいかほどのものか知らないけれど、これでまた放蕩三昧をなされるのだろうか。
現在の私には、万万が一にもそんなことはないが、それでも「もしかして」そんなことがあったとしても、残念ながら「三昧」を貪れるほどの体力が持たないだろう。
そんな風に考えると、今年の年末ジャンボの最高賞金は7億円だというが、さすがに上記のことを考えるまでもなく「買わない」ことにした。
3億円くらいまでなら、昔あったという「石動城」を建てて、市内一円を見渡せて、天守閣には天体望遠鏡を設置して、夜空の散歩が楽しめる。
携帯電話の流布で今は「king of hobby」の座を失った、アマチュア無線の設備も設置して、世界中と交信できるような夢を叶えたい。
また、中層階には分る範囲での江戸時代くらいから現在までの「古き良き時代(残念ながら戦争という時期もあり、目を瞑るわけにはいかないが)」をスライド的にみられるように。
これらは、すべて今後の孫以降の時代の人用に。
現在のわれわれ近くの年代の人も楽しめるように、エレベーターなどの施設も備えたもの、というような構想が描けたのだが。
7億円になると、それをしてもまだ余りあることになりそうだから、そんな物騒なお金には近づきたくない。
本を著す人の才能や、当たらない宝くじへのヤッカミだけれど、こんなことを思って過ごしてみるのも、楽しい限りである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :41
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名簿を見て
OB会の名簿が今年も送られてきた。
かつての上司が、勤務先を明記されていないから、悠悠自適なのだろう。
また、部下だった人も同様に勤務先が明記されていないということは、それなりに幸せな年齢を過ごされているのだろうし、勤務先が明記されている人は、年齢を問わず「頑張っているんだなぁ」と思ったりしている。
と同時に、昨年まで掲載されていた人の名前が掲載されていないときは「どうされたのかなぁ」といろいろな思いを巡らしてみる。
逆の場合が時折ある。
そんな時は、決して悲観的な思いではなく、素直に「復活されたのだ」と感激することもある。
もちろん、すべての人について知っている訳ではないから、その範囲はかなり狭いのだが、それでも1冊送られてくるたびに、楽しんだり、いろいろな思いにふける時間を過ごせるということは、とてもハッピーな気持ちになれるのがいい。
東京で開かれる「総会」には出席する機会がない(作らない)が、名簿だけで自分なりの総会を開いているような気分になれるから、何とも楽しいではないか。
そんなに高い会費ではないので、これからもできるだけ長く付き合って、毎年の楽しみを味わい続けたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 08 :04
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冬将軍到来
毎年のことだが、これからのシーズン、我が家では灯油ストーブは欠かせない。
オール電化とはいっても、蓄暖設備だけはその調節が効かない、ということで導入していない。
もちろん経済的なこともあるので、そちらの原因のほうが先なのだが。
ともかく、シーズン開始の真っ先は、灯油の給油である。
先日、今シーズン初めて灯油タンクへの給油をお願いした。
460L入りのタンクに446L入ったのだが、積んできたトラックのタンク容量が930Lで、約半分入れていった。
我が家だけではなく、ほとんどの家でもこの程度の家用のタンクはあるのだが、軽トラに積んできて2軒ほどしか回れないのは、なんとも効率的ではないなぁ、と思っていたが、よく考えると、大型の車では小回りが利かないということが原因なのだろう。
この様に考えると、自分の勝手な考え方が、いかに「狭い知識」での愚行なのかということに気がついて、恥ずかしくなってしまった。
いつもは、嫌だなぁ「冬将軍」と思っていたが、こんなことを教えてくれるのも「努々(ゆめゆめ)学習を怠るでないぞ」と言ってくれているような気がして楽しい。
敦盛に謡われる「人間わずか五十年」というほどの昔から、平均寿命が延びて、六十六歳などまだまだ「洟垂れ小僧」といわれるようにいつまでたっても学習を怠らないようにしたいものである。
いつもの逃げ口上だけれど「学習」であって「勉強」はやはり苦手でやる気にならない。
投稿者:つねちゃん
at 06 :33
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島倉千代子の逝去
大好きな歌手の一人が逝去された。
確か小学3年生の頃まで「貸本屋」をやっていたので、今はもうないのかもしれないが「明星」「平凡」というスターに関する月刊誌が届くと、その付録は我が家のもの、というよりも「自分のもの」になった。
そのほとんどが「歌詞本」である。(駄洒落のつもり)
だから、4歳年上の姉の影響もあったのだろうが、当時のその年齢にすれば、「ませた歌」をずいぶん歌っていたものである。
年齢は私よりも9歳上の彼女は、当時好きだった美空ひばりよりも親近感があって、「お姉ちゃん」という感覚だったろうか。
ちなみに美空ひばりは「姉御」で、笠置シズ子は「おばちゃん」という感覚だった。
それから随分経ってから、野球選手との結婚と離婚、莫大な借金などの度重なる事件は知っているばかりでどうにも助けにはならなかったが、ある時ヒョンナことから彼女の名前を耳にした。
会社のずいぶん偉い人が、飛行機で彼女と隣り合わせになり、譜面を見ながら小さな声できちんと歌っているのに気が付き「素晴らしいですね」と声をかけた時の彼女の返事が「プロですから」というものだった。
それ以来、今までにもまして好きになった。
それ以来は順調で、「人生いろいろ」は自分の身に置き換えても愛唱する曲だった。
女性歌だから、いくら酔ったところでカラオケのナンバーには入らないが、一人で車を運転するときには、これからも大声で歌っていきたいものである。
ありがとう、おねえちゃん。
投稿者:つねちゃん
at 08 :12
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大曲の花火大会
基本的にはリアルタイムで録画したのだが、見たのが季節はずれだったけれど、つい先日だった。
27組の人たちが競い合う形での競演で、細かいことは分からないけれど、どれも見事という他ないくらいで、2時間45分を楽しんだ。
花火自体も見事だったけれど、一番印象に残ったのは、すべての花火が終わってからだった。
観客席の人たちが、手に手に最近はやりの明かりをもって、対岸の花火師たちに感謝の意を示すためだろう、振っているのである。
一部の人ではないようで、ほとんどの方だったのではないだろうか。
また、対岸の花火師たちも赤い明りを振っている。
たぶん「見せて貰ってありがとう」という気持ちと「見に来て下すってありがとう」というお互いの感謝の気持ちだったのではないだろうか。
人のことを言えた義理ではないが、私も近くの花火大会や少し遠出して長岡の花火も見に行ったことがある。
でも、終わり近くになると、帰りの混雑を避けるために、最後まで見たことはほとんどなかったが、お互いに感謝するという、こんなことが果たしてどこでも行われているのだろうか。
長岡の花火のときは、観光バスで行ったこともあり、終わり近くになるとガイドの人が急き立てるように引率されるので、感謝などということではなく「綺麗だったねぇ」という感慨だけで慌てて帰ったような気がする。
これからは、日々に感謝するだけでなく、他人様のなさったこと、してくださったことに感謝してゆきたいものであると、反省した。
投稿者:つねちゃん
at 06 :36
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コンプライアンス担当
「今は昔」の話になるが、在職中の一時期「ソフトの不正使用」に関する調査に遭遇した。
当時、直接その業務に携わっていたので、ある程度の不正コピーがあることは、認識していて、いろいろな「検査」に対応した経験から「見解の相違」に持ち込めるだけの自信はあったのだが、一向に私にお呼びがかからなかった。
そのうちに、調査も終わり、あろうことか「この会社では一切不正コピーのソフトは使っていない」という証明書と表彰を受けることになった。
果たしてだれが対応したのだろうか、私にはまるで分らなかった。
でもしかし、正直ホッと胸をなでおろしたのは事実である。
しかしながら、ある場所で(当時流行っていた異業種交流会という場所での名刺交換の時だったと思う)「貴方の処でしたか」と驚かれて、賞賛され、その手法などに話が及んだ時に、今更「いやいや多少はありますよ」と言う訳にもいかず、何とか少しの自慢を含めて話したが、冷や汗ものだった。
それ以来、標記の言葉を聞くと「会社のための嘘つき担当」だなという感覚が払拭できていない。
その担当は、対外的には、たぶん一番信用できないのではないだろうか。
今回の銀行や食品偽装などもまさにそうではないだろうか。
本来「盾」になるべき担当が罰せられているのは、いうなれば「人身御供」であろう。
残念ながら、企業人という人間は「正直だけでは生きてゆけない」のである。
リタイアして10余年、正直ばかりではないが、「許される嘘」も含めて楽しくこれからも生きてゆきたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :16
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アルバイトが悪いのか
かつて私もいろいろなアルバイトをした。
しかしながら、父の教え(今となって思うことだが)が「お金をもらう以上、その店のためになるようにしろ」ということが意識の底にあったのだろうから、昨今報道されるような不埒なことはしなかったと思っている。
今のアルバイトには「単なるその場凌ぎの金稼ぎ」という意識しかないのではないだろうか。
勿論生活苦やいろいろな条件下でアルバイトしかできない、という人もおられると思うから、あくまでも私の勝手な判断である。
そんな「金の亡者」は、得てして「この会社のために」という気持ちはないのではないか。
だから、自分の人気取りで、このデジタル社会でのアピールを考えるのだろう。
一部の事件では「賠償責任」を求めているが、ほとんどは「経営者の責任」ということで、アルバイターにはほとんど影響が出ていないから、いつか流行った歌詞の中の「別れたら、次の人」というように次のアルバイト先を探すのだろう。
そして、次のところでも同じようなことをやる。
アルバイターばかり責めるのではない。
そんな人を「使う側:経営者」は果たしてどんな面接をしているのだろうか。
もっと慎重に採用を考えるべきだろう。
それをせずに、単なるロボット代わりの労働力と考えているのであれば、いつまでたってもこれは治らないだろう。
雇われる側、雇う側もきちんとそれなりに責任を持つべきだと思うが。
投稿者:つねちゃん
at 08 :20
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デジカメは楽しい
今更何を、と言われるかもしれないが、最近になってようやく「楽しく撮影できる」という気持ちが少しだけ分かった様になった。
私自身で、昔のカメラを買ったのは、就職して暫くしてからで、それは間違いなく「証拠写真」のためだった。
「どこそこへ誰と行った」(当時は撮影日付や場所などは写真自体には記録されなかった)、「どこそこはこんな状態(景色)だった」というようなものである。
だが、仕上がりは現像を頼んで、焼き増ししてからしか分からないから、果たして自分の思った通りの写真になっているかどうか、また、それを他人様に渡せるようなものかどうかが、ある程度お金を掛けてからしか分からなかった。
だからとんでもない物のためにお金がかかったので、撮影すること自体が「億劫」だったのであると同時に「無駄遣い」としか思われなかった。
それがデジカメで一掃されたのである。
現在持っているデジカメでは、上記のことが全く払拭されたと同時に、「連写」という技術が採用されており、録画もできるのだが、動きのあるものは一枚一枚の写真から選べるのでまったく便利である。
また、撮影してすぐに確認でき、拙かったら撮り直しもできるのである。
デジタルの世界で長い間いたのだから、理屈では、十分すぎるほど分かっていたのだが、いざ実感となるとなかなかできなかった、というのが本音である。
メモリ容量の関係で、1回で撮影できる枚数は1000枚を超えるのであるから、ともかく「どんどん撮って」長く楽しみたい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
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「朝令暮改」
以前にも、言ったと思うが、外交関係については、ほとんど知識がない。
でも、将軍様の朝令暮改は「終わりの始まり」ではないかと思う記事に目が留まった。
在外公人の子女を帰国させよ、という将軍様の命令が、内外の多くの反対によって「将軍様の思し召しにより」撤回されたという記事である。
かつての江戸時代の「参勤交代」を撤回した事情とは全く違うのである。
これなら「反対すれば、もしかしたら通るかも」ということになり、だんだん…。
拉致問題も核問題も・・・怖いような、嬉しいような。
これと似たようなことが在職中にあった。
立場上「こうすれば、少なくともこの件に関する再発防止ができるのではないですか」と提案して、担当課長さんとその上司の方の了承が得られ、その場で全員にその課長さんから決意表明がなされた。
暫くして同様なトラブルがあったので、再度指導に出向き、なぜこれが実施されなかったのかといろいろと調べてみると、「本社のスタッフの言うことは現場を知らないからだ」と私らが帰ったとで、周知があったのだという。
朝令暮改どころか「舌の根が乾かないうち」の出来事で、残念だけれどその課長さんには転任いただいた。
その後も何度か訪れ、酒を交えながらの雑談の中で知ったのは、このことばかりでは無かったので、決意表明は「単なる儀式」だったという。
幸いにして、後任の課長さんは「是々非々」でやられたので、本音で話ができ、プロジェクトは成功裏に収まった。
こちらは「終わりの始まりではなかった。
投稿者:つねちゃん
at 06 :05
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ブログのネタ
先日も紹介したが、「ブログを始めてみたいけれど、あなたのように毎日ネタを探せない」という方がいらっしゃる。
私も「ネタ探し」にはそれなりの腐心をするが、それは「なるべき、機会に捕らわれず」を心掛けたいからである。
で、そんな人にはこのように伝えている。
「朝、新聞を読まれるでしょう。ネットニュースなどでもいい。ともかくその中から気になったものを手当たり次第紙に書き出す。読み終わったら、その中から3つに絞り込む。
その中で『俺だったらこう思う』というものに対して意見を箇条書きにする」と。
そして、出来れば文章にして、「一夜漬け」にする。
翌朝それを読み直して、適当に加筆修正すれば、それでよし。
また、こんなことも言う。
「あなたは多分、昨日のあなたとは違っている。どこが違っているだろうか」と。
リタイアした連中は「毎日同じことの繰り返しだよ」と言うが、そんなことができる訳がないのである。
朝起きた時間、その日の天気、その日の温度、ベターハーフの機嫌、子息や孫はどうか。
朝食には何を食べたか、美味しかったかそうでもなかったか、自分ならどんな味にしたいか。
そんなことを、ぼんやりとした時間に思い出してみるとよい。
必ず「ぼんやりと」が肝心である。
真剣に思い出そうとすると、長続きしないし、嫌になるから。
このブログの精神のように「仄々」「徒然」に思い出してみればいい。
必ず「昨日と違う自分」が見つけられるだろう。
何もブログにする必要はなく、「今が過去」と思って違う自分に気が付くことが楽しくなってくるから。
投稿者:つねちゃん
at 06 :22
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ブログの楽しみ
もう2000通を超えて書いているが、一頃は何人かから非難や激励、異論を含めてご意見をいただき、「読まれているんだなぁ」と感激したものである。
ところが、最近は殆どそんなことはなくなり、「飽きられちゃったかなぁ」と思うことがしばしばだった。
ところが、先日から数回「広い意味での仲間」とお酒を入れて集うことがあり、今まで思ってもみない人から、意見や異論をいただいた。
いわゆる「物言わぬ読者」がそれなりにいらっしゃることに驚くとともに、ある意味感激した。
このブログの精神は、何度も書かせていただいているが、「仄々」「徒然」が基本であり、これを書く前に二度「徒然草」を読んだ。
兼好法師もただ「徒然に」書いていたばかりではなく、時には批判もあったり、自省もあったり、いろいろなことに触れていることが気に入った。
正直「なぁーんだ、こんなことでいいのなら俺にも書けそうだ」と思って始めたのである。
政治屋さんへの不満や、世間一般への提言(と自分では思っている)もあるが、大半は基本的な考え方に則っていると思っているが、読者の評価はどうであろか。
それにしても、ここまでやってこれたのも、「物言う読者」は勿論だが、時折評価を聞く「物言わぬ読者」の支えであったろう。
年代が、上にも下にも少し離れた人から「あんたけ?」と驚かれたりするのも、またそれなりの楽しみである。
もうあと二か月余りで閉じようとしているが、もう少しですから、お付き合い下るとともに、今までのおつきあいに、あらためて感謝申し上げます。
投稿者:つねちゃん
at 06 :53
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お掃除スタイル
毎月曜日の朝は私の掃除の時間である。
リタイア後2年ほど経ってから家事の分担ということの一部として家内と相談のうえで始めたことである。
だからかれこれ10年以上になる。
なるべくマンネリにならないように、何月は敷居と鴨居を念入りにとか、それなりに強弱をつけて楽しんでいる。
それなのに、先日から気が付いて始めたことがある。
もう大分前になるが、両足を怪我した時の入院時、当時はまだ喫煙していたのだが、病室では当然喫煙できないので、喫煙所まで車椅子で移動する際に家内が作ってくれた「頭陀袋」を使い始めたことである。
最近の掃除機は機能も高度になったのだろうが、私にはどうしても必需品なのが「隅取り」と「ブラシ」である。
これを持ちながら掃除機も持ってということになると、どうしても無理があり、頭陀袋の活躍である。
家の中だから、誰かに見られるという心配もない。(これで結構体裁を気にするほうなのである)
たぶんこんな姿を他人様が見たら「あぁ、あの人もついにおかしくなられたか」と嘲笑の的になるのだろう。
でも、作業上こんなに便利なものはない。
托鉢のお坊様も「必要最小限」ということで考えて使われているのであろう。
かくして、それからは掃除機とセットにして置いてあり、初めは怪訝な顔だった家内も時々は使っている様である。
投稿者:つねちゃん
at 08 :25
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着潰す
在職時制服の一つとしてワイシャツは毎日交換が当然だった。
単身赴任時でも、必ず毎日洗濯が済んでアイロンもそれなりにかけたものを着用していた。
だから長期の出張時でホテルを転々とする時には随分困ったものである。
滞在型であれば、そのホテルへ頼めばいいのだが、会食などで酔って帰ると、それも忘れてしまい、近くのコンビニなどを探さなくてはならなくなる。
ところが、リタイアした今、慶弔時のほかは殆ど着ることはない。
それも必ず「白いワイシャツ」ということになっているので、3枚ほどあれば、必ず洗濯に出したものが押し入れに掛っているので、慌てることもない。
そんなわけで、少しストライプの入ったものや、カラーのワイシャツなどは今ではほとんど着ることが無い。
年に数回の少しフォーマルな時のための物も数枚は「準備OK」の状態で掛っているから、それ以外は「用済み」の物なのである。
先日、パジャマ代わりの物が無いかと家内のいない時に探さなくてはならなくなって、あちらこちら探していると、そんなワイシャツが10枚ほど出てきた。
勿論洗濯はしてあるが、アイロンなどはかかっていない。
でも捨てるのも勿体無い(この辺が断捨離と違っているのだが)ので畑仕事などにどんどん使っている。
所謂「着潰し」である。
ワイシャツは単身赴任の時に経験しているので、洗うこと自体は殆ど洗濯機任せなので、然程苦にならないのだが、後のアイロンかけが大変である。
どんどん着て、着替えて、洗ってもらって、また着る。
「潰す」と言うが、在職中は少しカレーでも跳ねてシミが付けば、すぐに「捨てていた」が、今は多少の汚れでも誰かから見られること気にする必要もないから、随分長持ちである。
でも、これも楽しい「断捨離」だろうと勝手に思っている。
投稿者:つねちゃん
at 06 :50
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結構良いことを言っているんだけどなぁ
夏休み中は「ボツ投稿」で少しのんびりさせていただいた。
でも、ボツにはなったけれど、それなりに「良いこと」を言っているのではないかと思ってしまった。
確かにもらえる図書カードは魅力ではあるが、それよりも「皆にこう考えてほしいなぁ」ということの方が採用されることの最大の喜びである。
確か、かつて愛読した、サトウサンペイ氏の本だったと思うが「結構良いこと言っているんだけどなぁ」と言うつぶやきが出てくる。
諸姉・諸兄に置かれてもそうではないだろうか。
決して自分本位ばかりではなく、我田引水的な教唆ではなく、京都弁で言う「はんなり」とした意見として、言っているのではないだろうか。
尤も、投書したものすべてが採用されたとしたら、これはこれでまた他人様への迷惑になると思えば、打率的には3割をキープできれば、野球選手でもそれなりの成績が残せるのだから、まぁいいとするか。
でも、そんな中、投書内容にクレームが来ることがある。
憤慨するよりも、「果たして自分の言っていることが勘違いからではなかったか」と思い知らされることがある。
また、「同感です」と直接電話を受けることもある。
一つ一つを上げることはできないし、したくはないのだが。
新聞社側でも、ある一定の期間を置いてだが、まるで反対の意見を載せている場合があり、これはこれで「なるほどなぁ」と思ってしまう。
これからも「いいこと(だと思っている)」を言い続けていきたい。
投稿者:つねちゃん
at 06 :31
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同じ仕事でもなぜ地域によって差がある
先日の記事に表記のことが載っていた。
地域の人は「これでまた若者が都会へ移動してしまう」と嘆かれているとのことである。
しかし、これは是認するしかないのではないだろうか。
確かに都会へ出て同じ仕事をすれば収入は上がるだろうが、自分の家から通うよりもいろいろな経費がかさむことは間違いないのである。
単純に消費物価だけを比較すれば、都会の方が安いこともあるだろう。
しかしながら、居住費を初めとしての「固定的費用」は決して安くはないのである。
それと、根本的に違うのは「同じ仕事でも利益が違えば支払う賃金が安くなる」のは企業としての当然の論理である。
異論もあろうが、出来るだけ寄り添って自分の家を始め、地域を大切にして「お金ばかりじゃないさ」というくらいに過ごせばいいのではないだろうか。
これと似たような話、と言うか揶揄されたことが何度かあった。
ここでも何度か紹介しているが、私自身は「転勤族」で本社と出身地を何度か往復してきた。
幸いにして、少しずつではあるが「昇進」ということにもあずかり、出身地の同期入社の人間との飲み会もあったのだが、そんな時に言われたことである。
「ただ往復しているだけで、随分偉くなって、給料も俺らと随分違う」と。
初めのうちは「そんなでもないよ」と言っていたが、繰り返されると、もともと短気な人間本性が出て、「羨ましいのだったらお前にも平等に機会があったはずだ。自分でやらなかったくせに何を言うか」と返すことにした。
大きな家を構え、3ナンバーの車に乗り、家族と苦楽を共にし、仕事は二の次、とまでは言わないけれど、それなりに楽しんでいるじゃないか。
軽四に乗り(当時)子供の進学時にも単身赴任だったりと、それなりに苦労はあったのだ。
なんでも平等、という考えはやはり違うと思う。
投稿者:つねちゃん
at 06 :03
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