2010 年06 月21 日
改めて「気づく」
このテーマについては、今までも何度か書かせてもらったような気がするが、それだけ「感受性」が強くなっていると言うことか、それとも学習の幅が広くなって、今までやったことの無い分野での気づきなのか判らないが、何度経験しても愉しいものである。気づかずにやっているのと気が付いてやっているのとは大いに違う事にいまさらながら改めて驚く。
般若心経を「意味も理解せず」書き写しを続けているが、少しずつ、僅かではあるが「ひょっとしてこんな意味かもしれない」と気づき、図書館で解説本を借りてきて、その部分だけ読んで理解する(したつもりである)。
「書くこと」に対するテーマについては別の日に書く事にしているが、徒然草も終わり、家の信仰が浄土真宗(正直今までは余り明確に気づいていなかったのだが)なので、「御文」と言うものも一通り終えた。
多分祖父が買った物だと思う大正時代に発行されたものが仏壇から出てきたので、それが切っ掛けになったもので、一日一説とやっていると少し綻びていた綴じ糸が一部切れてしまったが、遺影でしか知らない祖父もまぁ納得してくれるのではなかろうかと、供養の一端かと自己満足している。
ところが、当時は「判りやすく」解説したのだろうが、なかなか現代文としての理解も難しく、珍しく「捨てない本」を買ってそれについては、解説を読む事を日課の一つとしている。
そんなことをやっていると矢張り今までに無い「気づき」がやたら出現してきて愉しい。
それに加えて、頭の孫が一年生になり、小学校で色々なことを覚えてきたり、宿題の相手(音読を聞いて評価することなど)をしていると、「エッ」と思うようなことにも「気づき」を発見できて愉しい。
在職中は「気づき」を愉しむのではなく、身につける事が主流だと諭したが、今は無責任に愉しんでいる自分が逞しい、と思うのはわが身勝手なのだろうが。
投稿者:つねちゃん
at 07 :56| 学習
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