道徳的行動
書くネタに困った場合に、よく使わさせていただく本がある。
以前にも何度か引用させていただいたが、ずいぶん昔(昭和24年)に発行された「修養三百六十五日:島影盟著)である。
多分父の購入だったのだろうが、当時の父は三十二歳だから、その年齢の時にこのような本を読んでいたのかと思うと、改めて父の恩というか遺伝子に感謝したくなる。
祖父は父が十何歳かの時に亡くなっているので、祖父のものでないことは確かである。
今日のネタは、自分にも当てはまるものと、最近音読で気が付いたことである。
「これは『道徳的行為だ』と思ってやる行為はまだ身についていない」ということである。
出典は「パスカル」のようだ。
努力によってなされる道徳的行動は、道徳ではなく、平常に行われる行動がそうであってこそ、本当の道徳である、とのことである。
児童の下校時の防犯街頭指導、交通安全週間の割り当てによる街頭指導、朝の味噌汁づくり、毎週の家の掃除などなど、細かいことばかりだが、まだ「意識している行動」である。
大いに反省すべきことである。
最初は、「努力して行っていること」が「習慣化」され、そののち「当たり前」になってこそなのだろう。
そういう意味で「当たり前のことを当たり前にやる」ということが如何に難しいか今更ながら気が付いた。
尤も、それができた暁は「仏」なのであって、まだまだ修行僧の時は「菩薩」なのだろうか。足許にも及ばない。
投稿者:つねちゃん
at 08 :36
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漢字を改めて学習
ここでも何度か紹介したが、小さいころから漢字ばかりでなく、文字が下手(汚い)で、職場で和文タイプライターが導入された時には、真っ先に取り組み、たぶん日本で最初ではないかと思うワープロが登場した時にも、我先に活用させてもらった。
だから、「文字が下手」はそれで随分と回避することができた。
リタイア後、「手で文字を書けない」ことにがっくりした。
それで一念発起して、もう書き取りも10年以上続けていて、それなりに「書く楽しさ」も分かってきていたつもりだった。
孫が学校で「漢字大会」があるというので、その練習シートを作ってくれと持ってきた。
B4版の用紙なのでそのままコピーができず、得意のExcelでシートを作成して渡した。
小学2年生のものは「フゥーン」という感じだったが、小学4年生のものは送り仮名つきのもので、作った後で、私も手書きでやってみて、孫娘に見せると、「私の先生だったらこれではすべてダメだと思う」との評価に愕然とした。
漢字の基本である、ハライ、トメ、ハネという基本が全くダメだというのである。
10年以上も続けてきた「書き取り」は何だったのだろう。
でも、そこで思い直した。歳をとっても前向きなのである。
ならば、孫と競わないまでも同じようになれるようにしよう。
残念ながら「先生」を求める訳にもいかないが、そこは使い慣れたインターネットで、書き順や基本を明示してくれるサイトも知っている。
一文字一文字、遅くてもせめて孫に「これなら合格点」と言われるように同じ漢字シートで練習したいと思っている。
もちろん2年生の分も含めて。
また楽しい学習のネタが増えた。
投稿者:つねちゃん
at 06 :57
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「十五夜」をどう発音するか
猛暑・酷暑の時期も過ぎて、少し遅かったような気がするが、虫の音が賑わしくなって、シャワーではなく、お風呂にすることが多くなってきた。
小学生になった孫娘らとは一緒に入ることもなくなり、家内とも一緒に入ることはもう皆無に近くなっているので、少しぬるめのお風呂にゆったりとして入るのも、極楽至極、という心持である。
そんな時、もう2年ほど前に買った「風呂用(防水ということ)オーディオ」を使っている。
FMラジオが聴けるだけではなく、USBとCDに録音した音楽が聴けるのである。
ジャンルはまさに荒唐無稽というほどテンデンバラバラで、般若心経があったり、英会話までもある。
そんな中、唱歌も当然あるのだが、先日聞いていて「オヤ」と思ったのが表題である。
諸姉・諸兄は「じゅうご」の「ご」をどのように発音されるであろうか。
回りくどい言い方は別にして、鼻濁音で発音するというのが正解のようであるが、果たして私自身は今まで、そう歌ってきただろうか。
まったく無意識だったろうが、いまさら気がついたのが、なんとも楽しくてならなくて、このテーマを思いついた。
このようにして聞く童謡や唱歌には、まだまだ気が付いていないことが多いのではないだろうか。
鼻濁音とは全く関係ないのだが、「テルテル坊主」という歌をご存じだろう。
「明日天気になぁーれ」はもちろん子供の願いだろうが、3番の歌詞では、とんでもない言葉で歌われている。
最近では、この歌詞の部分は放送されないようであるが、調べてみては如何だろうか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :48
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やっぱり「知らないことは、知ることなり」
論語の書き写しをやっていたころにも紹介したかと思うが、今更調べる気にもならないので、新たな感慨として紹介しておこうとペンを執った。
もっとも「ペンを執る」ということ自体が、現在の私には「書き写し」以外はやらないので、「キーボードをたたく」ということになるだろうか。
本題に戻して、現在「左手での書き写し」をやっている本に「修養365日」というものがある。(昭和24年10月発行)
その中に、また出てきた。
論語と言い方は少し違うと思うが「知るは知らざるなり、知らざるは知ることなり」と思っている。
論語は「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ、これ知るなり」と言っている。
尤もどちらにしても、日本語への翻訳だから、訳者によって書き方が違うから、私の「意訳」でもよかろう。
書き写しや音読を始めたのは、今年の目標の一つに「書き取りで指を動かす、音読で口を動かす意」というのがあって、それに基づいているのである。
だから、そんな効果を求めて始めたのではないのだが、意外にもいろいろなことを考えさせられることが、余禄となってついてきている。
その一つが「これ何だったっけ?」ということである。
その度毎に、電子辞書を繰るのだが、結構「勘違い」で覚えていることに気が付くのである。
所謂「知っているつもり」が「知っていなかった」ということに気が付くのである。
こうなると、面白い。
新たに「知ろう」という意欲が湧いてくるからである。
50,60は「洟垂れ小僧」といわれる如く、まだまだ学習することがたくさんあることに気が付くと、何をやっていても楽しいではないか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
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「耳」という漢字と「聞」という漢字
祖父母学習参観と言うのに出席した。
小学2年生の孫と、4年生の孫の掛け持ちであった。
まずは2年生の教室へ。
偏と旁などをバラバラにして組み合わせてできる漢字、という学習だった。
孫は手を挙げているのだが、中々順が回って来ず、4年生の教室へも行かなければならず、少しじれったかったが、ようやく当ててもらって黒板の前に。
「門」という字と「耳」という字の組み合わせで「聞」という字にするというもので、爺としてはそれで十分満足だった。
ところが、先生は「これで注意をしなければならないところがありますね。どこだったでしょうか?」とおっしゃる。
正直、私は「何を言っているの」と分らなかったのだが、孫はしっかりと理解しており、みんなの前で発表した。
「耳の字は下の線が垂直の腺から出ているが、聞の字で中に入るときには、垂直の腺からはみ出さない」というである。
正直「知らなかった」。
夕食のときに、家内に紹介するとともに聞いたが、家内も知らなかったとのことである。
毎朝の書き写しや音読で、たぶん何度もお目にかかっていて、書いている字だろうが、全く無頓着だったことに愕然とするとともに、孫の成長としっかりとした把握をしていることに今更ながら感心し、頼もしく思ったものである。
これを契機に私自身もっとしっかりとモノを見て把握しなければならないと自戒した。
参観だけではなく、自分の学習にもなった。
4年生の学習では、「風呂敷で物を包む」ということに遭遇する。
1升瓶や西瓜に見立てたボールのつつみ方は、まったく覚えていなかった。
ここでも学習になった。うれしい限りである。
投稿者:つねちゃん
at 06 :49
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「日本のしきたり」という本
夏休み少し前に、表題の本の「書き写し」を完了した。
(学陽書房刊 なるほどッ日本のしきたり)
いろいろなしきたりがあり、知らないものも多かったり、勘違いして覚えているものもあったので、書き写すことでに指の運動にもなったし、それはそれだ楽しかった。
巻末に「付録」として「モノの数え方」があったので、それには結構驚いた。
今ではそのものの存在自体も知らないものもあるので、いくつか列記してみたい。
鐙(あぶみ) 一足、一掛け、一具(そろえ)
行燈(あんどん) 一張
衣桁(いこう) 一架
烏帽子(えぼし) 一頭(かしら)
まだまだたくさんあるが、単純に「読んでいて楽しい」。
上記の物は、衣桁以外はすでに我が家にはない。
鐙以外は、かつてはあったので、その物自体を手にしたことはある。
何故か烏帽子までもがあったのである。
さりとて、神職に携わったようなことなど聞いたこともないのだから、何かの余興の時にでも使ったのだろうか。
こんな本の書き写しをしていたって、特別自分の知識に役立つという訳ではないのだが、同じ「書き写し」でも「苦痛」よりも「楽しみ」が付いてくれば、それだけで仄々という気分になれるのである。
在職時には考えもしなかった、のんびり気分もいいじゃないか。
投稿者:つねちゃん
at 06 :29
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「饋電」という言葉を知っていますか
「三つ子の魂、百まで」とは言わないが、随分昔におぼえたことが、この歳になっても「フッ」と思い出すことがあるのが、何とも楽しい。
こちらでは北陸新幹線の工事が急ピッチで行われている。
先日ようやく、多分全てではないだろうが、高架に電線が張られた。
散歩の途中で、最初の日は「避雷線」だけだったが、その後2日ほど後に「饋電線」が張られていた。
そう「饋電」という言葉が不思議とすんなりと出てきたのである。
「電車」なのだから「電気を『送る』必要があるので、その為の電線」である。
「それは給電線だろう」というツッコミがあるとは思いながらも、少なくとも私が高校の電気科の生徒だった時に、「電気一般」という科目だったと思うが、教えられたのは「饋電線」だった。
も50年位前に習った記憶、それもさほど成績が良い科目ではなかった(勿論ほとんどの科目が駄目だったのだが)物のほんの一部の記憶が、咄嗟によみがえったのである。
ちなみに、小規模ながら「饋電所」もあって、「こんな小さくていいのかなぁ」と思って、近づいて表示を見ると「予備」となっていたので何となく納得してしまった。
尤も、表示には漢字が使って無く「きでん所」と平仮名が使われていた。
それならいっそ「給電所」と漢字で意味がはっきりと分かるように書けばいいのではないか、と思ったが、そうはいかない事情があるのだろう。
そんな事を思いながらの散歩はナント楽しいことか。
景色や木々や花、そして人と出会うのも、確かに楽しいが、こんな「採るに足らないこと」を思いながらの散歩も結構癒しになるのだと思う。
短時間でもやって見られては如何だろうか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :21
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速読よりも速聴はどうか
蛙の子は蛙、親に似ぬ子は鬼っ子などと言うことで、これもどうやら親譲りらしいが、父の遺した本には「速読」関係の本が10冊を下らなかった。
蛙か、鬼っ子でなかったかは別にして、また、父がそれをマスターしたかどうかも別にして、速読法については、挑戦はしているのだが、全くと言っていいほど実績が上がらない。
学習も中々継続しないので、中断後始める時は、結局最初から、と言うことになる。
基本的に「やりたいなぁ」という気持ちはあるのだが「必然性」と言うことになると、さほどでもないのがその原因なのだろう。
ところが、「速聴」と言うことになると、これは必然性が先になるので、結構身についている。
道具は「ビデオ」である。
我が家の録画機は500GB程度の容量なのだが、それが逼迫してきているので、どんどん見なければならない。
最初のうちは中々着いていけないのは、当然なのだが、しばらくすると、言っている内容の理解を含めてすんなりと理解できるようになっている。
はじめのうちは「かつて知ったる世界の学習」なので、私ならコンピュータ関係であれば、復習と言うことと、最近の情勢なので、途中聞き逃しても前後の関係で十分つなげられるから、満足できる気分で終わることができる。
また、落語関係の番組は、自分でやることこそとてもできないが、筋が分かっていて、どんなサゲにするのか、いろんなところに聞き耳を立てながらも楽しい。
その他の分についても、「速聴耳」と言うものが育ったせいか、1.3倍ではまだもどかしいほどになってきている。
45分番組なら30分余り、1時間番組でもCM部分を早送りにすれば、40分ほどで観ることができる。
「何をそんなに急ぐのか?」ではなく、早く聴くことで脳細胞が活性化するのではないかと言うことへの挑戦である。
楽しい番組を観ながら脳の活性化ができるのだから、ぜひお薦めしたい。
投稿者:つねちゃん
at 09 :45
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PCが使える
町内の有志の方にPC講習をしていることは、前に何度か書いている。
そんな事を聞いているらしい人から「PCなんて誰でも使えるんじゃないの。そんなことでお金を取っているなんて、相変わらず阿漕なことをしているなぁ」と冗談交じりに言われた。
その人は、PCについてどれだけの知識をお持ちなのか知らないが、あるときその人が作った資料を見た。
正直、「よくこれでPCが使えているなぁ」と思って、憎むよりも以前に可笑しくなってしまった。
収支報告書では、多分Wordを使って表を作っておられるのだろうが、微妙に数字の縦位置が違っている。
また、そんな文書だから、当然数値(お金)を書いてあるのだが、一つ一つ入れられたのだろうか、位取りのために入れるコンマが時々2桁と3桁の間に入っていたりする。
こんな風に、ただ単に「使える」だけでは何の意味もない。
頑張っているなぁ、とは思うものの、残念ながらこんなことでオフィシャルな資料として出すようでは、とても「使える」とは認められない。
でも、実はこれと似たようなこと(でもないかと今でも思うのだが)をやって色々と注意された経験があるからである。
地元でそれなりに技術者として成果を上げて、本社勤務になり、技術という面では経験が裏付けしてくれてそれなりの成果を上げたのだが、ある時「上申書」というものを書くことになった。当時はまだワープロなどなく、すべて手書きだったのだが、投資額が1700万円なので、それなりの人の目に触れる文書である。
何度も訂正を指摘されて、どうにか承認されたのだが、その後の飲み会で「あの文書はいかにも『田舎くさい』ものだったなぁ」と言われて、嘲笑ではなく談笑のネタになったものである。
最近見た箴言に「頂上と思うと、あとは下るだけ。いつまでも頂上を目指せ」(うろ覚えである)というのがあった。
人を謗るよりも、我が身を振り返る癖を学習によって付けたいものである。
投稿者:つねちゃん
at 09 :01
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「しんにゅう」と「しんにょう」
先日家族がそろった夕食の時に、小学2年生の孫を中心に「漢字問答」で楽しんだ。
「右」という漢字と「左」という漢字の書き順の違いから、いろいろと楽しい話題がみんなから出た。
きっかけは、その孫が「『週』という字を一発で丸印をもらえた」ということからである。
で、その偏についてが今日のテーマである。
「週」という漢字の偏(正確には「編」ではないのだが)を何と呼ぶのか。
諸姉・諸兄はそれをどんな「読みかた」でお習いになっただろうか。
家内、娘、娘の旦那と私が各々違っていた。
他の人のことはさておいて、私は「しんにゅう」というのは「ぐにゅぐにゅ」が無いもので、「しんにょう」はそれがあるものと別々のものだと理解していた。
また、その中の点が二つ物は、どのように呼んで区別されているだろうか。
また、点が二つになっているものは、確実に「画数」が一つのものよりも多いはずなのだが、果たしてどうなのだろうか。
結論から先に言うと、最近の印刷物やこのIMEでもそうだが、どちらも同じなのである。
画数については、4画でも3画でも、同じ編が使われた漢字が出てくる。
いつもはお父さんの帰りが遅いので、中々全員そろっての夕食の機会はないのだが、みんな揃ってこんな話題で盛り上がれることに、感謝するひと時だった。
また、これを契機に「まだまだ知らないことや勘違いしていることが多いのだなぁ」と反省と、さらなる「楽しい学習」に意欲がわいたことの紹介である。
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投稿者:つねちゃん
at 07 :11
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楽しい「当て字」
書き写しと音読をやっていることは何度も紹介したが、そんな中でいろいろと愚にもつかないことに気が付いたりする。
そんなテーマが、このブログの真骨頂だと思っているので、全く同じ事は書いていないつもりだが、「似たようなこと」は何度か出てきているのではないだろうか。
まぁ、あまり気にせず、そんな風に思われたらどんどん読み飛ばしてもらって構いません。
で、今回は「当て字」です。
意外と「これが正しい漢字」だと思っていたことが、ずいぶん昔にできた「当て字」ということが結構多くあります。
戦時中に外国の国名や地名、などというのは、その代表的なものだろうし、最近国民栄誉賞を受けることになった「野球」選手も、当て字というと違うかもしれないが、名翻訳語である。
それは別として、「しあわせ」と言うと、どんな字を思い浮かべられるだろうか。
また、これからこちらの方でお祭りがあるのだが、その時に特別祝い事(結婚、出産など)があって、山車や獅子に花を打たれた場合の向上に、「おんさけ さかな 『さーわやま』〜〜」というのがある。
勿論「お酒と、お肴を「沢山(たくさん)」」という意味であり、それをわざわざ「さわやま」と読み上げているのである。
その他の例は、ネットで調べればわかるので、ご自分でお調べなさることをお勧めするが、バケツはもともと「バケット」をなまらせて、それをわざわざ「場穴」と書くことはないが、「かわいそう」という言葉は果たしてどのように書かれるであろうか。
「可愛相」か「可哀想」か。
投稿者:つねちゃん
at 10 :06
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「目の当たりにする」をどう読むか
勿論「まのあたり」であり「めのあたり」ではない。
ところが、最近というかしばらく前までは「間違いです」と悩まずに判断していた言葉が、若者言葉の流布が多くなってきたせいかもしれないが、それも「強ち間違いではない」という風な風潮になってきているような気がするのは、私だけだろうか。
そんな言葉を、決して調べる訳ではないが、なんだか最近多く目につくようになってきている。
これは、誰かに注意しようという気持ちからではなく、本当にこれで良いのだろうか、と悩むことでもないのだろうし、ずいぶん昔に、英語を習った時に聞かされた「Living English」という教本で、先生が言われた言葉を思い出す。
「教科書の名前は『現在使われている英語』という意味ですが、それとは別に『生きていて成長している英語(言葉)』だという意味もあります」ということだった。
成長しているのだから、「昔通りの常識」は通用しなくなってくる、というのは、至極当然のことなのかもしれない。
でも、どこかで、誰かが、「これは本来はこう読む(使う)のだよ。それがなまって、現在はこうなっているのだよ」ということをやはり伝えるべきではないだろうか、と中幸年の小父さん(もうお爺さんだけど)は思うのである。
「なさけはひとのためならず」とか「いっしょけんめい」の意味も「人のためにならない」とか、「一生」では、もともとは違っていたのだと、やはり伝えたいなぁ。
ここのブログでは、あくまでも、基本精神が「のほほん」「仄々」で「徒然」だから、目くじらを立てる気持ちは毛ほどにもないのだが。
投稿者:つねちゃん
at 06 :50
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書き写しでの「エッジ処理」
「書き写し」をしていることは、このブログでも何度も紹介しているが、最近また「新たな発見」というか「気づき」を経験した。
文章の段落を改めるときは、一文字分下げて書くのは、当然のルールとしてやっていたのだが、その書き出しが『「』で始まる場合は、どうなさっているのだろうか。
いくつかの印刷物をみると、どうも『「』は下げて書かれていないようである、ということで、私もその場合は先頭文字の所に書くことにした。
また、その行の末尾の文字の所に『「』が来る場合はどうだろうか。
これも印刷物を見ると『「』の次の文字を少し窮屈だが、一枡に埋めているようであり、それに倣うことにした。
また、文末が句読点の直前で終わるときはどうだろうか。
まさか、次の行が句読点で始まることはないだろうし、みっともなかろうから、欄外に書くことにしている。
Wordの自動的な文末処理では、単語毎次行に移したりしているのだが、原稿用紙という文化がないのだろうからかな?
いずれにしても、多分まだすべてを理解、納得している訳ではないだろうから、これからも新たな発見があるのではないだろうか。
ボケ防止のためのとして始めた「書き取り」だけれど、思わぬ発見ができることで、何とも楽しくなってくる。
右手の書き取りで気を付けていることは、「枡目一杯の大きさで文字を書く」ことであり、小学生の孫にも注意されないように、書き順を間違えないようにすることである。今でも時々間違う「右」「左」がそれに該当する。
また、「わ」「れ」の左をずるしないで書くこと。
指先だけでなく、結構頭のトレーニングにもなる。
投稿者:つねちゃん
at 09 :22
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漢字の読み
よく見るTVのクイズ番組で、特に「漢字の読み」については興味深く見て「楽しい学習」を楽しんでいる。
そんな中でも、知りすぎているものについては、今更「この漢字どう読みますか?」と聞くのは、よほどの難読漢字でない限り、質問するほうが「馬鹿じゃない?」と言われそうだ。
でも「描く」はどう読みますか、それは本当に正しいですか?
また、「記す」は如何ですか?
こんなに易しい漢字でも、そのように聞かれると「???」となってしまうのではないでしょうか。
そうです、二通り(漢字によってはそれ以上のものもある)あって、そのどちらも正しいのです。
要はTPOによる使い分けなのです。
「絵を描く」の場合でも「かく」と「えがく」で、必ずしもTPOばかりではないようですが。
「日記を記す」場合は、少しだけ違うような気がします。
諸姉・諸兄はどのように使い分けられますか。それとも全く同じように使われますか?
基本的に、土・日・祝日を除いての毎日書き取りと音読を少しずつ続けています。
そんな中で気が付いたことなのですが、これが結構面白く感じられたのです。
「えがく」「しるす」と一辺倒で読んでいたのですが、どうも「語呂」が良くないのです。
そして、私なりに「ここはこのように読むほうが筆者の意向に沿うのではないだろうか」と判断しながら読むと、単に字づらを読んでいるのとは、今一つ楽しみが増えるように感じられます。
つまらないこと、と一笑に付されるでしょうが、それでも「私の楽しみ」だと思っているのです。
投稿者:つねちゃん
at 09 :54
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漢字と国字
書き取りをやっていて「やはり面白い」と思うのは、漢字だと思って使っている「国字」ではないだろうか。
このブログでも何度か取り上げたが、そのうちの幾度かは「テーマが思いつかない」時の逃げ込み寺、の如くだった。
今回は、そうではなく「調べてみよう」と思ったからである。
でも、単に無秩序に調べても面白くないので、今回は「魚」に関するものに絞ってみた。
次回、テーマに困った時には「鳥」に関するものになるかもしれないが、果たしてそれまでに2000回になってしまえば、登場しないということになる。
それでは、私の持っている電子辞書の掲載順に並べてみよう。
鮖(かじか)、鮗(このしろ)、鮴(ごり)、鯏(あさり)、鯑(かずのこ)、
鯒(こち)、鯱(しゃち)、鯲(どじょう)、鯰(なまず)、鰯(いわし)、
鰰(はたはた)、鱇(アンコウの下の字)、鱈(たら)、鱚(きす)
たぶんもっと調べれば、これ以外にもあるのではないだろうか。
果たして、すべての漢字があなたのPCで表示されましたでしょうか。
偶には、本当の意味で「徒然なるがままに」こんなことで楽しんでみてはいかがですか?
かつて使った「漢和辞典」はまだまだ使い道がありますよ。
また、同じ意味なのに今まで習った別の「漢字」があるのに、なぜこんなことが楽しいのか、と訝しがる人もいらっしゃるだろうが、「漢字の成り立ち」と「国字の成り立ち」にも興味を持って調べてみると、楽しさが増えること請け合いである。
昨今いろいろな物議をかもしている「漢」の国の人の感覚に、少し理解が及ぶのではないだろうか。
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投稿者:つねちゃん
at 06 :55
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まだまだ知らないことがたくさんある
先日、ある機会に「メールを送っても返事がない」と言われた。
そんなことはない、と思いながらも、そういえば最近メールの受信がないな、と思って、自分の携帯の設定を見て驚くともに恐縮至極だった。
PCのメールの設定などについては、最近Windows8にして、幾つかのアカウントが増えたものの、それなりに駆使しながら使い分けていると思っているので、こんなことないだろうと思っている。
ところが、携帯については、なかなか「昔人間」の域を出ておらず、「電話機」という意識しかないので、メールの送受信は、正直なところ苦手である。
そんなことと、幾つかのメール会員になっていることもあって(やめると特典ポイントが貰えなくなるという点があるので、受けたこと、にしている)本来の友人・知人のメール以外に「ご案内メール」が届くので、必要な時に問い合わせる設定にしておいたのだろう。
そんな気がするだけで、すっかり忘れてしまっていたのである。
言われたことを契機に、問い合わせてみると、なんと2カ月前にもらっていたメールが出てきた。
幸いにして、返事が必然というほどのことはなかったものの、「冷や汗三斗」の気持ちだった。
携帯の機能には、まだまだ使ったことのないものがあるようだが、長い間使っているので、表面の塗装が剥げてきていて、先日も友人から「まだそんなものを使っとるがけ?!」と非難とも嘲笑ともつかない言葉を掛けられた。
勿論現在のものは、俗に言われる「ガラケー」なのだから、それも含めて言われたのだろう。
でも、スマホに乗り換えても、使う必要がない機能にお金を払うのも嫌だしなぁ。
「知らないことがある」というのは、悲観ではなく、「まだまだ楽しく学習できる」と負け惜しみを含めて思っている。 ( ^)o(^ )
投稿者:つねちゃん
at 08 :01
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孫の質問
小学校3年生の孫から質問された。
「1月は何で『お正月』というの?」
諸姉・諸兄はスラットお答えできるだろうか。
残念ながら、私は「年の初めの月だから」と説明にならない答えしかできなかった。
「年の初め」がなぜ「正」なのかの説明ができなかったわけである。
私の持っている国語辞典の「大辞林」にも「正」に「初め」という意味は載っていないし、漢和辞典の「漢字林」にも載っていない。
結局、正しいかどうか判らないけれどネットにすがる事にした。
結果、「正」には「新たに始める」という意味があると出ていたので、それを孫と一緒に見て合点した次第である。
これだけでは、「頼られる爺」と思っていることに水をさすことになるし、私自身も残念至極で、何とか名誉挽回と無い知恵を絞る。
すぐに出てくるのは、「睦月」「如月」という呼び方であり、特に「神無月」については、出雲地方だけが「神有月」となる謂れを伝える。
また、「如月」は別の書き方で「着(衣)・更・着」とも書くこと、「綿貫(わたぬき)」と書いて4月をあらわすのだと、教える。
でも、如月は説明して納得はしてもらったものの、綿貫、については「着る物の「袷(あわせ)」と「単(ひとえ)」という概念がうまく伝わらなかったので、聞いている孫もなかなか理解できなさそうだった。
もちろん最近では、袷から綿を抜いて単にして着るなどという行動は、多分どこでもやられていないのだろうから、これからも理解するとは多分無いであろう。
言ってみればうまく「煙に巻いた」格好だが、改めて「物知らずだなぁ」と楽しく思った次第である。
投稿者:つねちゃん
at 10 :20
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「肌色」という言葉は差別用語
先日孫がお母さんの誕生日に渡すお手紙を書いていて、お母さんと自分の絵を描いていたのを見て、「きれいな肌色に描けているねぇ」と声をかけると、怪訝な顔をされた。
横で見聞きしていた家内が「最近は『肌色』という言葉は差別用語になるんだから、使わないのだよ」と教えてくれた。
在職中には、「差別用語」という言葉には、かなり神経質だった。
私の住んでいる所の近くには、私が知らないだけかもしれないが、対象になる人たちがいらっしゃらなかったので、実質的には無意識だったのだが、職場では結構大変な問題だったから、幾度かの研修を受けるとともに、部下にも指導する立場だったからである。
ところが、『肌色』という言葉にもそれが影響しているとは、まるで知らなかった。
部落解放問題からではなさそうで、国際化の関係かららしい。
確かに孫と同じクラスの中に、少し色の変わった子がいて、保育園時代から仲良くしていて、私にも結構懐いてくれていて、可愛いなぁと思っていた子である。
その子にっては『肌色』はこの色ではないと言われれば、確かに納得が行き、そんなことで差別する気持ちなど毛頭ない。
それでは、その色を何というかは、忘れてしまったが、家内が言うにはまだ昔と呼び方の違った色絵具(クレヨン)があるそうだ。
正に「言葉は生きている」ということだろうか。
「昔はこれだったから、いいじゃないか」というのは、大好きな古典落語中でこそ、許されるだろうが、今を生きている我々にとっては、やはり十分に注意すべきことであろう。
これでまた、新たに「学習すること」が出現したので、他人様に失礼のないように楽しく学習してゆきたいものである。
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投稿者:つねちゃん
at 06 :52
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「知らない」だから「知る喜び」
最近「富に」という訳ではないが、何故か「何でこんなことも知らないのだろうか」と思ことに遭遇する。
PC講習に関することでは、日々新しいことが発表されたりしているので「知らない」ことはむしろ「楽しく学習できる」という喜びなのだが、それ以外の所謂「一般常識」というような点で「知らなかったなぁ」というようなことに出くわすである。
幸いにして現時点までは、それで致命的な被害を蒙っている訳ではないので、少し恥ずかしいけれど素直に「知る喜び」を感じている。
まるっきり知らないことは、それで済むのだが、「知っていたつもり」がまるで違った意味の場合は正直かなり狼狽してしまう。
勿論それを表面に出すことは滅多に無いのだから、誰に対しても迷惑などをかけることもないので、自分自身の心の中だけで収まっている。
で、感じたのだが「知らない」ことが「恥ずべきこと」と思うよりもむしろ「知る喜びのための機会づくり」と捉えると、何だか遭遇することが楽しく思えてくる。
言葉の意味、人脈、歴史的な出来事と自分のまわり等々いろんなことで知らないことがまだまだたくさんある。
また、「知っているつもり」のことも改めて再確認してみると、意外と違った意味もあることに気が付くと、それもまた楽しい。
落語の「やかん」や「ちはや」ではないが、知ったかぶりを決め込んで、後ろ指をさされるよりは、余程精神面でも健康で過ごせるのではないだろうか。
さぁ、今日も「知らないこと探し」をして楽しもう。
投稿者:つねちゃん
at 06 :40
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まだまだ知らないことが沢山
今まで使っていた知識をフル稼働して、また最近の状況や対策なども集められるだけ集めて少人数を対象に頼まれてPC講習をやっている。
これからの時節で、最も質問が多いのは「年賀状作成ソフト」についてである。
私が使っているのは「筆グルメ」と言う物だが、受講者の中には「筆まめ」「筆王」の方がいらっしゃる。
全て揃えることもできないので、その方のPCで「やってみる」ことから始めて、解決策を見出していっているのが実情である。
ところが、最近、私自身のデスクトップパソコンが、時々動作不良になったのに驚いた。
ネットで色々調べて、何とか解決したが、原因は「PC周りを掃除しろ」と言うことだったようだ。
埃による帯電がその原因であった。
医者の不養生ではないが、まだまだ知らないことが多く、一つ一つ解決して行く楽しみがある。
そんなつもりで、PCに限らず回りを見回してみると、不思議に思われることや、本当に些細なことに疑問が湧く。
漢字の書き順も「そうだったかな?」と思って調べると、全く間違っていたり、正しい順で書くと、なんだか少しだけ上手に書けるような気持ちになる。
また、その漢字の成り立ちについても、時々疑問に思うことが、ネット辞書で解決できると面白い。
何かの箴言に「知るは知らざるなり、知らざるは知るなり」と言うのがあったのを思い出す。
まだまだ65歳、疑問に思ったことや、積極的に「知らないこと」を探して楽しく過ごして生き続けたいものである。
おっと、そう思うこと自体が「知らざるなり」になるのか。
投稿者:つねちゃん
at 08 :49
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