2010 年06 月29 日
無責任に「見る」楽しみ
些か尾篭な話で、恐縮だが、諸姉・諸兄におかれては、大の用を足す時間にトイレで見るものには何があるでしょうか。勿論、物を考える上での「三上」という言葉を知らないわけではなく、在職中はむしろ積極的に実践(実戦?)してきて、それなりの実績があった事があると自負している。
相変わらず余談になるが、鞍上と厠上はよく実践できたが、枕上については、相手が居れば、それ所ではないし、相手が居なければ大概の場合酔いに任せて白河夜船を決め込んでいたから、そちらの実績は程遠いが、その分早起きで稼いだような気がする。
話を本題に戻して、「噛む食」を始めてから、従来ほど長くトイレにいて頑張る事はないのだが、それでも多分普通くらいの時間はかかる。
その間に読むものとして、従来は病院などの待ち時間に読んでいた「それなりの知恵」がつく本をなんとなく「見て」いた。
ところが、当然そんな浅知恵は身につくものでもなく、ただ「見ていた」だけに終始していたような気がする。
病院の待合時間などで「読んだ」所は細々ながら覚えてはいるし、自発的に思い出せなくても、人から言われたような場合に「そういえば」ということで思い出す事があったが、厠上での部分は全くといっていいほどそれが無かったような気がする。
それで、最近気が付いたのだが、そんな本や新聞などよりも、旅行社からの案内が適当ではないかと気が付いた。
新聞折込の家電製品のチラシも以前使った事があるのだが「欲しい」という気持ちが生じると書いてある細かい文字で仕様を理解してみたり、新しい言葉や用語があるとそちらに気が行って出るものも滞ってしまうのが常だった。
ところが旅行案内などは「どの道行けないのだ」と思いながらも、場所を思い描いてみたり、時には「そこへは行った事があるぞ」と思い出してみたりして、全体的にリラックスできてすんなり出るようになっている(と思っている)。
投稿者:つねちゃん
at 08 :30| 健康
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