<< 前のエントリ | メイン | 次のエントリ >>
2010 年09 月22 日

結構それなりの事はやっているのではないか

 般若心経の「書き写し」も先日500回を越えた。
 門前の小僧、の様に、少しばかり理解が出来ているように思えたりする。
 勿論研究すればするほど奥深いものだろうから、その真髄に触れることなど思いも寄らない。
 私のやっているのは、どうもその手の本によると「写経」では無いとの事である。
 本格的な「写経」をするに当っては、手や顔を洗い、綺麗な紙に静かに心をこめて磨った墨を筆で丁寧に書く事がどうも必須条件になっているようだ。
 折込チラシの裏にソロソロ壊れかけているプリンターを使って、原稿用紙を印刷して、寝ぼけ眼でボールペンを使って書き写しているのは、到底その足元にも及ばないと言うことのようである。
 それはそれとして、リタイア後「色即是空 空即是色」を少しばかり垣間見しているように「何も得ようとばかりしない」という考え方に少しずつ傾いている場合がある。
 また「不垢不浄」と言う言葉にも「人によっていろいろな見方があるものだ」と言うことで一概に決め付けることなど無くても良いのだと言う考え方も時々同調できる事がある。
 歎異抄と言うものの書き写しもやって終わったが、その後ずいぶん昔に買った「論語」の書き写しを始めている。
 ここでも、いろいろと思い当たる事があり、勿論孔子が言っているすべての事が出来ている訳では毛頭無いが、「学ぶ」ことや「忠孝」と言う意味のわずかな部分は反省を伴いながらだけど実行している部分がありそうだ。
 般若心経と論語と言ういずれも「先人の知恵」と言う事に少しでも触れている自分を第三者的に見いてる自分を思うと、何だか「不出来ながら良くなっているよな」と褒めてやりたくなる。
 そんな「能天気」な気分もたまには良いのではないか。

投稿者:つねちゃん
at 06 :25| 日記 | コメント(0 )

◆この記事へのコメント:

※必須