2010 年10 月06 日
ケチだと思っていたが
子供の頃からだろうが、食後、器についたご飯粒は勿論、調味料などをお茶と香の物を使ってできるだけ綺麗にしておく事が一つの習慣になっている。今では何も言われなくなったが、最初の内は「何もそんなにケチな事をしなくても」と窘められた。
戦後生まれだが「物を大切に」「米は八十八回の苦労で食べられる」と言われて育った所為かも知れないが、リタイア後不出来ながらも自分で育てた野菜や調味料(唐辛子系が多いのだが)を食べる事になると、それが完全に「習慣化」になったようである。
本人としては「ケチだから」「折角手間隙掛けて作(った)られたものだから、トコトン食べてやるのが供養だろう」と言うことから、殆ど意識せずに行っている。
流石に、きちんとした料理店やレストランでは傍目が気になったり、同行した人間に嫌な思いをさせる事があってはならじと、やらないが、最近はそんな所とは殆ど縁がないから気軽なものである。
そんなことで「ケチケチ精神」だけから、自分だけしかやらないだろうと思っていた。
それに在職中に聞きかじった「次工程は自工程」という屁理屈をつけて、「ここで綺麗にしておけば、食器を洗う人も少しは楽になるだろう」との理屈もつけてやったいた。
ところが、最近になって、禅の修業にはこれが当然のことのようになされていると聞いて、少し意を強くした。
「食事も修行のうち」とかで、全ての事が修行の種になり、食器を洗い片付けるまでもその一環で疎かにしてはならない、と言うことである。
禅宗の修行などとは縁がない世界の住人だけれど、僅かでもその一端をしていることは決して悪いことでは無かろうから、またまた楽しみが増えた気分である。
結局こんな事が「貧乏人のグルメ」ではなかろうか。
それならそれで、決して自虐的ではない楽しみとして続けていこうと思っている。
投稿者:つねちゃん
at 14 :44| グルメ
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