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2010 年10 月27 日

書き写しの意味の変遷

 「写経」ならぬ「書き写し」の当初の目的は、ワープロを使い始めた頃から「手書き」という事が殆ど無くなってきて、ある程度の文字は読めるが、書く事が非常に不得手であり、少し長い文章を書き始めると、思いは巡るのだが、中々文字として出てこず、あまつさえ手が震えて元々「綺麗な字」など書ける訳ではないが、「ミミズがのたくった」様な字しか書けない事に気が付いてのことだった。
 般若心経はもう540回近くになり、政宗、家康、光圀の三君の遺訓ももう大分回数を重ねた。
 般若心経の深い意味は判らずとも、その片鱗が「判ったような気持ち」になっているのは「門前の小僧」的な感覚であろうか。(この感想については、今年の最後に書かせていただこうと思っている)
 三君の遺訓についても「これは確かに」と思う所と「これはどうかなぁ」と思う所があるものの、それなりに感ずるところがあり、書き写しから感情移入に近くなってきている。
 この間に、例によって色々なものにも「浮気性」で手を出し、徒然草は完了、歎異抄も完了、我が家の宗旨である関係から「御文」というもの完了した。
 途中から気がついて始めたものに「暦」もあるが、これも毎日続けている。
 これだけで決して十分とは言わないが、当初からの意味合いが少しずつ「意味を理解する」と言う事に移り変わってきた気がする。
 般若心経は今年一杯で辞め、遺訓も今年一杯までにしようと思っている。
 こうなってくると、やらないと何かその日忘れ物をしたかの如く感じられて、来年は別のものの書き写しを考えながら物色中である。
 また、朝起きてすぐにやるので、ウツラウツラした頭がうまく切り替えられるような気がしているので、これも効用の一つだろう。
 書き写しは楽しいものです、一度何か初めて見られてはいかがでしょうか。

投稿者:つねちゃん
at 06 :54| 健康 | コメント(0 )

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