2011 年01 月13 日
般若心経から学んだこと
以前にも紹介したが、私の場合、「写経」と言うルールに則っていないので、飽くまでも「指先運動としての書き写し」でしかないのだが、意識してのサボりや完全に亡失という事があったので、2年余りも掛けて年末の12月28日に600回の書き写しを終えて、一応これについては終了する事にした。それでも「門前の小僧」的な知識はついたようで、それなりの理解をご披露させていただき、一驚に供しようと思う。
経が唱えている「無」にはなかなか入れませんでしたが、今後何かの折にそんな思いに触れることもあるかと思います。
お経、と言うものの真意を測ることは、とても出来るものではないと思うのは、お釈迦様と言う一人の人が言った事でも、時を経る毎にいろんな宗派ができることからも納得できるので、飽くまでも「私なり」の理解でしかないのです。
600回までに、私なりに理解したことは「こだわらない」事だと思っています。
「何に」と言う疑問があるでしょうが「自分の素直な心」にということでしょう。
決して、いつもいつも「素直」であれる訳ではありませんし、その自信もありませんが、「気が付いた時」だけでもいいだろうと思っています。
かつて、信頼する上司から「お前は素直過ぎる」という言葉と、大分経ってから「もう少し素直に考えろ」と言う指摘を受けた事があり、以前の指摘を言うと「それはそれで良いのかも知れない」と言われた事があります。
企業戦士として、素直だったり、そうで無かったりというのはTPOの問題であり、そういう意味で自分との考えが番うのは「それも良し」と考えるべきなんだろう、と言うことで、その晩はおごりで鱈腹飲ませていただきました。
今はそれ以上に「自分の尺度」ではなく、お釈迦様ほどではないにしても「天の尺度」に合わせて素直になれればなぁ、と言う思いです。
「不垢不浄」と言う節がありますが、「綺麗(浄)だ、汚(垢)い」と言うのは人間の勝手な思いであり、以前にも紹介したと思いますが「オオイヌノフグリ」と言う植物があります。
これを綺麗だとか汚いとか、こんな名前をつけているのは、人間の傲慢さからくるものでしょう。
この植物としては、好きな時に花開き、好きなときにお休みしているだけなのです。
綺麗だな、と思う時はそれで良いとしても、汚いなぁ、と思うときに少しこんな思いをしてみてはどうでしょうか。
尤も、どの道「門前の小僧」でしかありませんが。
新年になって、宗教からなかなか離れられず、今度は「正信偈」というものの書き写しをしています。
勿論この他にも論語など幾種類かの書き写しをしながら「指先運動でのボケ防止」も合わせて行っています。
おいおい「門前の小僧」としての紹介をさせていただきましょう。
投稿者:つねちゃん
at 09 :14| 興味あること
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