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2011 年01 月20 日

掃除の意味

 諸姉・諸兄に置かれても、いろいろな意味で「掃除」と言う作業をなされる事があるだろう。
 単身赴任時代には、僅か6畳間くらいの部屋でも、精々で2週に一度、嫌々ながらやっていて、半年に一度家内が来たりすると、見るに見兼ねてだろうが、隅々まで綺麗に掃除してくれたもので、自分には適性がないや、と嘯いていたものである。
 リタイアして2年目くらいから、受け持ち分担として家の2階部分の掃除を自発的に担当した。
 最初は、決して意地悪ではなかったろうが、掃除の後を家内が見て徹底した駄目出しをされて「やっぱり適性が無いのだ」と思いつつも、自分から言い出した手前勝手に放棄する訳にも行かない。
 それが、2年位前からだろうか、掃除の意義を考えるようになってからは、殆ど駄目出しを受ける事が無くなった。
 掃除とは、自分が見て「汚いなぁ」と思うところを他の人に同じ思いをさせないこと、と思うようになったからだろうか。
 裏返して言うと、綺麗な所は他人にもぜひ見てもらいたいと言う事になろう。
 こう考えると、桜の名所を初めとして「何処其処は綺麗だったよ」と言う事になり、そんな経験は誰もがお持ちでは無いだろうか。
 決して自分が綺麗に加担していなくても、そんなところでは、無意識は致し方ないとしても、積極的に汚したりはしないだろう。
 根っこはそれと同じで、決して「見て見て、こんなに綺麗になったよ」と言うのではなく、少なくとも「汚いなぁ」と思えたり見えたりする所は綺麗にしておく、と言う事になろう。
 それが、私が考える「掃除の意義」であると思っている。
 そんな風に思うと「分担してやっている作業」とか「仕方無しにやっている作業」などとは思わないから、苦労でもなんでもなくなる。
 尤も、相変わらずの「逃げ口上」は「それには気がつかなかった」と言う事である。
 自分に見えない汚い所は、気がつかずにいるのは当然である。
 でも、駄目出しされたら気分よく綺麗にして、次からは其処も見るようにしていくことで、綺麗の範囲が広がってゆく。
 それが誰に見られなくても、十分満足である。

投稿者:つねちゃん
at 08 :49| 日記 | コメント(0 )

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