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2011 年02 月24 日

独裁者の驕り

 エジプトの大統領を初めとして(実はその前にチュニジアだったかもそうだと後で知ったが)あちらこちらで「独裁者体制」と言うのが崩壊しているようだ。
 私自身は「物言えぬ社会」と言う意味での独裁者社会には、このブログや新聞投書を含めてとても耐えられないだろう。
 それはそれとして、現在のリビアもそうだし、随分昔になるが、フィリピンもそうだったけれど、独裁者の行動や態度が、本当に「馬鹿げていて、滑稽」と思ったのは、私だけだったろうか。
 まるで、欲しい物を買って貰えない時に、ショーウィンドウのケース前で大声で泣き叫び、果ては周りのものを壊すほどの行動をするなどの「駄々っ子」である。
 こんな事が、国連に代表されるような国際的な場でも「自分だけは許される」とでも思っているようで、リビアの独裁者の国連の態度がその代表であるようだ。
 しかしながら、飽くまでも私見であるが、自国に都合が良いと言うだけで、それを容認してきた米国に代表される大国の態度も果たしてどうだったのだろうか。
 いずれにしても、かつて「共産主義も資本主義も、究極的に発展すれば、崩壊するだけである」と言うことばを社会科の先生に聞いたことがある。
 でも、果たして「それは外国の話」とばかり言っていていいのだろうか。
 マニフェストを我武者羅に守ろうとしている与党もそうだし、予算などどうでも良く、我(党)り我利亡者で、何が何でも「解散総選挙」と喚いている先生方の行動も、ある意味で滑稽でしかないと思うのは、多分(弱くなっているなぁ)私だけでは無いだろうと、心細くながら思う。
 昨日のブログでも書いたが、決して信心深くなったりしている訳ではないが、時には「他利」と言う事を考えてはどうだろうか。
 そうでないと「数は力なり」でねじれ国会でなく、ある団体でそれが解消されたら、それこそ「独裁」に近くなるのでは無いだろうかと心配する気持ちもある。
 勿論、それらの先生方を選ぶのは(選ばなかった人も含めて)我々の責任なのだが。

 

投稿者:つねちゃん
at 08 :44| 政治への注文 | コメント(0 )

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