2011 年03 月16 日
論語を読んで「自分」に気づく
「だからどうなんだ」と言われても困るのだが。「論語読みの論語知らず」をそのまま地で行っている様な「書き写し」のメニューに入れてもう2ヶ月は経った。
勿論全ての事が当てはまるわけではなく、「そんなことを言われても」と言うほうが圧倒的に多いのだけれど、時々「そうだよなぁ」とか「うん、俺はこのようにやってきているし、やっているよなぁ」と言うような文章に出会う事があり、なんだか楽しくなってくる。
論語は、言うまでも無く、孔子が説いている相手と言うのは「君子」もしくは「君子になるだろう人」なので、私のような凡人で、小人(閑居して不善をなしている、かな?)が呼んだところで、特別な事は何もないし、ましてやリタイアした今では、ますますこの意味合いは無いのだろうが、まぁ、「鰯の頭も信心から」という言葉もあるのだから、そんな気持ちでの書き写しである。
そんな気持ちで始めているのだから、僅かでも「自分」と言うものに気づかせてくれる文章に出会ったときには「儲けもの」なのである。
それはそれとして、在職時に「自分に気付け」と言う事で新入社員を約2年間指導(OJT)したことがある。
そのときには「言うだけ」の上司だったが、それから約15年経つけれど、今論語と言う上司に言われているようで、それもまた楽しい気持ちである。
反発する文章は「文字の練習」のみということにして、気付きを与えてくれるような文章はそれに加えて、来し方を振り返り、行く方を思考して見ると、君子ならずとも何か得られるものがあるのではないかという気持ちである。
なぁーんだ、結局は「何か徳を探そう」と言う打算だけなのか、と思い気付かされるのも、一つの楽しみだったりする。
投稿者:つねちゃん
at 09 :39| 日記
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