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2011 年04 月07 日

伝えるべき事/伝えざるべき事

 今回の東日本震災(この言い方が少し気になるのだが)で「報道」と言う事についていろいろ考えさせられたのは私だけだろうか。
 「知る権利」を錦の御旗の如く各報道機関は「聞き出し」を行い、各々が選択した(基準が全く判らないのだが)「専門家」「一家言ある人」を登場させて、「ああではないか、こうではないか」と言う事をまさに「喧伝」していたのではないか。
 震災についてだけならまだしも「知らせる権利」と言うことも判らないではないが、、原発に関する報道については、「怖いんだぞー」と言う事を実際の被害や今後の状況見通しについて「喧伝」でしかないような気がした。
 数値で表したほうが判りやすいとでも思ったのか、「何倍」と言う表現が盛んに使われていたのだが、果たしてこんな報道をそのまま流して、受け取った人がどのように感じるのかを考えた事があるのだろうか。
 仲には「そんなに心配する事はないのだから」と言う報道も無かった訳ではないが、まるで能無しタレントのゴシップを、様「特ダネ」的に喧伝する姿は、正直悲惨さを感ずるよりも「滑稽さ」と「不埒さ」だけが先行してしまう。
 確かに「隠す」ことはあってはならないけれど、果たしてそれを伝える時に、受け取り側の感情を加味したものになっているのかどうかの判断が必要だったのではないだろうか。
 そのプロの発想で、場合によっては「これは伝えざるべき」と言う判断があっても良かったのではなかっただろうか。
 何故その判断をしたのかと言う基準と信念を持って行う事が、各機関の「ポリシー」になるのではないだろうか。
 中でも噴飯物だったのは、あるコメンテーターと評論家(私は全ての評論化を否定している)が、「私が総理だったら、こうしている」と言っている事だった。
 ある局面だけを見てそういっているのは「群盲象を評す」と言う事でしかない。

投稿者:つねちゃん
at 11 :22| 報道 | コメント(0 )

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