2013 年7 月16 日

センセーショナルな記事の見出し

 さすがに新聞やラジオ、TVは然程ではないけれど、それ以外の紙メディアによる報道のタイトルには、今更ながら驚くことが多い。
 週刊誌というものは、リタイア後は買って見るものではなく、時折のラーメン屋などの外食をする時の待ち時間に置いてあるものを見る位である。
 だから、ほとんどは新聞の「広告欄」でタイトルばかりを見るにとどまっているし、ラーメン屋にしても、中身を読むほどの待ち時間はないので、せいぜい読んでもタイトルの次に大きな見出しを見るくらいでしかない。
 それにしても、新聞の広告欄は聞くだけの話だが、まるで落語に出てくる「見世物小屋」を彷彿とさせる代物である。
 「身の丈六尺の大鼬(いたち)」の正体は、六尺の板に血が塗られたもの、というあの類である。
 「内幕を吐露する実名談義」などとあり、それなりに読んでみるが、どうもどこが実名なのか分からないし、それらしい名前があっても、それが本当に書かれた肩書きなのかどうかも確かめようがない。
 だから、週刊誌を買わなくなった、というのは貧乏人の言訳に過ぎないのだが。
 在職中、それなりに名の通った雑誌や新聞の名前を名乗っていた週刊誌は、記事によっては買っていたのだが、ある時私が属している会社と組織の記事があったので、勿論買って精読した。
 私だって自分の会社の隅々まで知っている訳ではないので、「へぇー」と思うような記述内容があった。
 ところが、どうも肝心なところが「違うよなぁ」という感覚になったし、発言している人は思い当たらない。
 話に嘘を交えるということにおいても、「ニッパチ論理」というのがあると随分昔に聞いた。
 実はもう時効だから吐露するが、私もこの論法を結構使った記憶がある。
 「八割は事実で、二割の嘘を交える」と全てが事実のように受け取られる。
 どうも週刊誌はそれを地で行っているようである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :49 | 報道 | コメント(0 )

2012 年10 月30 日

マスコミの「知る権利」の濫用を危ぶむ

 戦後の生まれだから、戦中における報道管制ということは、現実には知らず、歴史ドキュメンタリー番組などで、塗りつぶしの紙面などを見せられて、思うだにぞっとすることがある。
 だから、「大本営発表」だけを無意味に流すことに意味がないことは、充分すぎるほど理解している心算だが、それにしても、最近のマスコミ報道はなんとも情けなくなってくる。
 勿論「素晴らしい記事だナァ」と思うものは沢山あるのだけれども、一部の「情けない報道」でそれらが隠れてしまうことも少なくない。
 「何でも知る権利」だから、自分が理解出来る、出来ないに関わらず(殆どの場合正確に理解出来ているとは思えないのは、私の僻目なのだろうが)「根掘り葉掘り」聞きまくる。
 それだけならまだしも「穿った見方」や「訳のわからない仮定の基での質問」などもぶつけている。
 聞いているほうも、多分だが、「知ってどうする」かが全く見えておらず、いたずらに世情の混乱を招いているだけのことが、余りにも多すぎる。
 前にも書いたが、「秘策は何ですか」と聞いて、答えないと「秘策は無い様だ」と論じるにいたっては、馬鹿としか言いようが無いのではないか。
 たとえば、秘策を聞いたら、その人はどのような行動に出るのだろうか。
 「これがあの人の秘策だそうだ」と特ダネでも取った様に吹聴するのだろうか。
 最近の外交についても、遮二無二聞きだして、本来の外交に至る前に手の内を相手に見せてしまっているような報道はないだろうか。
 外交と言うものは直接は知らないけれど、それに限らず「交渉ごと」と言うのは、直接その場で相手の出方を見ながら行うものだと言うことは、現職時代にもよく経験した。
 「国民にだけ知らせる」心算かもしれないが、ある意味で言えば「記者」と言う名を借りたスパイ行為であろう。
 尤も、そんな言葉尻や素行を捕まえられるような政治屋が居ることも情けないのだが、残念ながら、それらを選んでいるのは、国民だから、嗚呼。

投稿者:つねちゃん
at 06 :40 | 報道 | コメント(0 )

2012 年10 月24 日

ラジオショッピング

 最近聞いているラジオのショッピング案内は、体の良い「押し売り」ではないだろうか。
 「この番組を聴いている方だけの特典」「何時何時までの期間限定のは特典」「〇〇セットだけの特典価格」など等
 言葉こそ柔らかいが、「限定商法」という押し売りの手法であろう。
 宣伝方法の一つだと言われれば、反論しようも無いのだが、それにしても「下品な宣伝方法」と言わざるを得ないのではないか。
 これは、何も「ラジオ」に限った訳ではなく、テレビでも、場合によっては新聞紙上でも似た様な方法をとっている。
 全く同じものを、別の媒体で見たら、そこには特別「限定」などと記されておらず「普通」に売られている。勿論値段もそんなに変わらない。
 よくよく考えれば、わかりそうなものだが、「限定」と言う「脅迫文句」に普段親しみを持って聴いているアナウンサーから言われれば、そんな普通の判断基準は吹っ飛んでしまうのだろうか。
 家電が一番感じることではないだろうか。
 「下取りしてこの価格」と言うのもあるが、家電量販店へ行って、同じものを比べてみると、殆ど大差ない。
 「下取り」するとその分価格が安くなるような物言いだが、家電量販店へ行って「下取りしてもしなくても」同じであることが多い。
 それなら「売りっぱなし」のショッピングよりも、「何かあったときに面倒を見てくれる」と言う身近な店の方が余程安心と言うものだと思うのだが。
 兎も角「限定」と言うものには、眉に唾をつけて「騙されないように」一度気分を落ち着かせて回りを見回してみるに限る。
 特に「0円」と言うものには、昔から言われるように「只ほど高いものは無い」と思うことにしようではありませんか。


投稿者:つねちゃん
at 06 :52 | 報道 | コメント(0 )

2012 年10 月11 日

「WWW」と言わないで

 私自身は、TV番組は録画して、同じ番組でもテーマによっては直ぐに消しながら、時間節約を心がけている。
 そういう意味で、ラジオ番組は「ながら族」で育ってきたので、聴きたい番組は当然あるのだが、そんなに選択は厳しくしていない。
 そんな中でもFM放送よりもAM放送の方が話題の地域性という点と私だけかもしれないが、年代が合うような話題が豊富で好きである。
 最近、夕方から外国放送の混信があって聴けない状態だった局がFMでも放送されることになったり、ネットでも聴けるようになったので、重宝している。
 そんなラジオ放送で、最近良く耳にするのだが「詳しくはWWW・・・で」と言う言葉がある。
 私自身は、ネットをよく利用するので、直ぐに理解は出来るのだが、多分この言葉を聞いて「私には関係ない話」とされている人も多いのではないだろうか。
 在職中に、よく注意されたことに「難しいことは、相手のレベルを考えて、判り易く話せ」があった。
 そういう意味から、「細かいことはネットで調べてみて」と突き放したような対応を唯々諾々と繰り返していると言うことは、アナウンサーと言う「喋りのプロ」としての意識がなくなっていて、その向上の努力をする気持ちも無いのではないだろうか。
 放送で、上手に表現すると言う技能が損なわれているのではないか。
 それで「ラジオを身近に」と言ってみても、元々「判らせよう」とする努力をしていないのだから、衰退の一途を辿るばかりではないか。
 私の好きなAM放送で、地域や年齢相当の話題も好きだが、「難しいことを判り易く、聞きながらでも理解できる」アナウンス技術をもっと磨いて欲しいものである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :22 | 報道 | コメント(0 )

2012 年10 月9 日

ラジオ/テレビショッピング

 表記のことは、やっぱり「一つの報道」なのだろう。
 聞く気はないのだが、CMの様に普通の番組の中に紛れて流されると、気が付かないうちに耳目がひきつけられる。
 「今だけ」「お聞きの人だけ」と言うような「限定」を付け加えられると、視聴者を惹きつけられるとでも思っているのだろうか、何とも浅墓な考え方である。
 あるとき、同じ製品の宣伝を別の地域で聞いたことがあるが、地域名や放送局名を変えただけで全く内容が同じであることに、なんだか白々しい思いをして、いっぺんにその商品に疑念を抱くようになってしまった。
 また、これはある意味で私の専門分野ということになるのかもしれないが、パソコンを初めとして、電化製品がまともには信じられないような価格で宣伝されることがしばしば耳にする。
 「価格がなんとワンコイン(500円と言うことらしい)」場合によっては「なんと、今申し込めばゼロ円」と言う物まである。
 ところが、宣伝費だって、只ではないし、慈善事業をやっている訳ではないのだから、わざわざ「ゼロ円=無料」と言う物を宣伝するはずはないのである。
 背景には、「当社推奨の通信会社との契約が必要条件」だったりするのである。
 最近のパソコンは、インターネット接続が前提条件で販売されているのだから、「私はネット接続は必要ありません」などとは言って居れないのである。
 通信会社のOBとしては、その会社を使って欲しいけれど、さりとて、「当社推奨」の会社が特別高いかどうかは別として、やはり何か怪しげな背景を感じてしまう。
 あるとき、PC講習をしている受講者の人が「どんな機種も全て4万円くらいだった」と教えてくださった。聞くと「バーゲンセール」で期間限定だという。
 Windows7の機械が欲しかったので行ってみると、上記のとおりの条件ならば、それだけ値引きしますよ、と言うことで本来の価格はその文字よりも随分と小さく書かれていた。
 新種の「おとり商法」と言われても仕方がなかろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :25 | 報道 | コメント(0 )

2011 年10 月4 日

報道を鵜呑みにしない

 「ニュース」という言葉の起こりの幾つかの説に「新しいもの(new)」という意味と「東西南北からの知らせ(North,East,West,South)」というものがあると聞いている。
 放送メディアが従来の新聞・ラジオから、TV、インターネットなど多彩を極めているのだが、「そうかそうか」と無批判に聞いていはしないだろうか。
 全てのことについて疑問をはさむつもりもないし、それだけの知識もないのだが、時折「本当にそうなんですか」と疑って見聞きしてみてはどうだろうか。
 最近、そんな目で見聞きしていると、良く「一般の人に聞きました」というのが気に掛かる。
 TVで放送する場合は「顔は見られたくないけれど言いたいことがある」人の意見はまずもって採用されることはないだろうし、要点はついているが、言葉がすんなりと出てこない人の意見もまずは収録されたとしても、編集されてその真意や真剣さが伝わらないのではないだろうか。
 結局「放送局の主張したいこと」だけが「実しやかに」報道されているのが実態ではないだろうか。
 政府がある指針を打ち出すと、報道するためには多分10人を下らない人に取材をして、そのうち「自局好み」の意見を80%、異論や反対意見を20%くらいで報道しているのではないか、と思ってしまう。
 挙句、大体は「反対意見」が大勢を占めているのが世論である、とばかりの報道である。
 果たしてそうなのだろうか。
 発表する側の政府も一辺倒に信ずるわけではないが、それを自局好みの変調を掛けた報道も「鵜呑み」するわけにいかないだろう。

投稿者:つねちゃん
at 06 :25 | 報道 | コメント(0 )

2011 年9 月15 日

政治評論家の言い分

 政治ネタが続くが、お許し願いたい。
 内閣の陣容が改まるたびに「自称政治評論家」が続々登場してくる。
 平生は政治とはかけ離れた「芸人」(決して卑下しているのではないが、俄か評論家として報道機関が登場させている事に憤慨しての事である)が芸人としてのプライドもあるのだろうが、政治ネタを何とかお笑いネタにして上げ連ねているのは、気に触ってならない。
 そして、大体言う事が決まっている。
 「あの大臣はそんなに経験がないから、拙いのではないか。私はこれに対してはこうすべきだと思う」というものである。
 報道機関も、そんな「ケチ付け」評論家をピックアップして登場させるから、視聴者の多くは「そうなのだろうなぁ」と思ってしまう。
 それならば、自分が立候補して、それなりの行動をすれば良いのに、それは絶対にしないのだから、卑怯者極まりないのではないか。
 まぁ、中には当選して、一時期評判を呼んだり目立つ行動をしていたりする人もいないではないが、結局は「党」と言う組織の員数合わせにしかならず、見る間のうちに埋没化してしまっているのが実情であろう。
 また、自分の興味(こんな言い方しか出来ない程度の知識しか持ち合わせていないのが現実ではないか)のある部分に対してだけは手厚い対策を望んで、正論ぶって言っているものの、全体としての均衡が取れたものであるか、という事に対しては全く無頓着である。
 これでは「駄々っ子」と同じである。
 各報道機関は是非ともこのようなやからを登場させるべきではないのではないか。
 某大学の、政治学の教授、という肩書きが例えあったとしても、「学習の世界」と現実の世界では違う事は、出演させる側が一番知っていることではないだろうか。
 尤も、いつも言うが「踊らされる国民」が一番良くないのだろう事は間違いがない。

投稿者:つねちゃん
at 09 :38 | 報道 | コメント(0 )

2011 年6 月15 日

報道は「アジテーション」なのか

 書くのが遅すぎたような気がするが、それでも自分としては「果たしてどうなのだろうか」との逡巡を繰り返していたテーマである。
 今回の震災、津波、原発の騒動(事故とも事件とも何とも言い難いので、この言葉を使うが、適切かどうかは自分自身疑問である)についの、TVやラジオの報道は、まさに「アジテーション演説」としか言いようがないくらいに「みっともない」次第ではなかろうか。
 いかにも正論のように「真実を伝えるべきだ」と言うが、何もかもそのままの真実を伝えた場合、果たしてどうなっていただろうか。
 多分大小の差はあるだろうが、今より以上に「パニック」に陥っていたのではないだろうか。
 その結果、各自が自己判断して、混乱を今以上に大きくしていたのではないだろうか。
 今まで聞いた事の無いような、ベクレルだとかという訳の判らない単位をそのまま発表して、受け取った側か果たして正しい判断をしえたのだろうか。
 今でもまだ、その影響については、TVに出てくる学者さんにおいても、百家争鳴の状況なのである。
 それなのに、それを反省するどころか、むしろ「大袈裟に言うほうが視聴率が上がる」とでも思っているような、タレント学者をとっかえ、ひっかえ登場させている。
 また、いつまで経っても「犯人探し」ばかりで、そんなことからは何も被災者にとって利の無い事を弁えていない様である。
 勿論「口達者」の人ばかりだから(口タレントとでも言った方が良いのではないか)簡単に揚げ足を取られるような発言はなく、表向きは「被災者の方が可哀想」と言うだけで、浅い底が見え透いている、と感じるのは私だけだろうか。
 「そんなことをやっている暇があるなら、もっと現実的な援助を」と言う声が、届かない現状を憂えるばかりである。

投稿者:つねちゃん
at 08 :32 | 報道 | コメント(0 )

2011 年5 月23 日

偏った報道に疑問

 最近だけではないのかもしれないが、私自身の基本的な考え方として「報道は中立」と信じていた。
 ところが、どうもそうではないことに、遅蒔きながらだろうが、気が付いた。
 ゴルフのトーナメントでは、必ず「人気者」が優秀を狙っているかのごとく書かれているし、相撲でも野球でも、スポーツについては殆どそうである。
 どうもこのことはスポーツだけではなく、政治面でも、国際的外交問題についても、ある一つの事に付いてセンセーショナルに書かれていて、それが外れると、まるでダークホースが現れたかのごとき書き様である。
 だから、だんだん新聞を初めとして「報道」には眉唾で視聴するしかなくなる。
 昨今「(紙ベースの)新聞の退廃論」が時折聞かれるが、勿論私は反対である。
 相変わらず余談になるが、朝目が覚めて寝ぼけ眼で新聞を取りに行き、配達している人に感謝しながら、ベッドで横になって読む時間は、至福のひと時の一つであり、絶対に無くなって欲しくは無い。
 ところが、新聞に載っている記事が「偏重」になっていると感じたら、ウトウトしながらの至福のひと時が、疑問視に目をギラ付かせながら読まなければならなくなる、ということになると、起床する前から疲れてしまう。
 優勝を狙っているのは人気者の選手ばかりでなく、参加者は全てそうであるはずだし、政治も外交も、経済も全て(頑張り方は違うとしても)「精一杯」にやって「覇権(言葉が適切ではないような気がするが、意思は然程違わないであろう)」を握ろうとして頑張っているはずである。
 報道が、偏重して、実感は無いが、戦時中の「大本営発表」ではないけれど、意識誘導と言うような事が無いように、是非ともお願いしたいものである。
 米国では「新聞を読んだ?」と言う言葉は、アナクロの嘲笑する言葉になりつつあると聞いたが、デジタルばかりではなく、何時までも紙ベースの新聞の存続を祈るばかりである。

投稿者:つねちゃん
at 09 :07 | 報道 | コメント(0 )

2011 年4 月7 日

伝えるべき事/伝えざるべき事

 今回の東日本震災(この言い方が少し気になるのだが)で「報道」と言う事についていろいろ考えさせられたのは私だけだろうか。
 「知る権利」を錦の御旗の如く各報道機関は「聞き出し」を行い、各々が選択した(基準が全く判らないのだが)「専門家」「一家言ある人」を登場させて、「ああではないか、こうではないか」と言う事をまさに「喧伝」していたのではないか。
 震災についてだけならまだしも「知らせる権利」と言うことも判らないではないが、、原発に関する報道については、「怖いんだぞー」と言う事を実際の被害や今後の状況見通しについて「喧伝」でしかないような気がした。
 数値で表したほうが判りやすいとでも思ったのか、「何倍」と言う表現が盛んに使われていたのだが、果たしてこんな報道をそのまま流して、受け取った人がどのように感じるのかを考えた事があるのだろうか。
 仲には「そんなに心配する事はないのだから」と言う報道も無かった訳ではないが、まるで能無しタレントのゴシップを、様「特ダネ」的に喧伝する姿は、正直悲惨さを感ずるよりも「滑稽さ」と「不埒さ」だけが先行してしまう。
 確かに「隠す」ことはあってはならないけれど、果たしてそれを伝える時に、受け取り側の感情を加味したものになっているのかどうかの判断が必要だったのではないだろうか。
 そのプロの発想で、場合によっては「これは伝えざるべき」と言う判断があっても良かったのではなかっただろうか。
 何故その判断をしたのかと言う基準と信念を持って行う事が、各機関の「ポリシー」になるのではないだろうか。
 中でも噴飯物だったのは、あるコメンテーターと評論家(私は全ての評論化を否定している)が、「私が総理だったら、こうしている」と言っている事だった。
 ある局面だけを見てそういっているのは「群盲象を評す」と言う事でしかない。

投稿者:つねちゃん
at 11 :22 | 報道 | コメント(0 )

2010 年7 月7 日

政治評論家

 参院選挙も今週末になったが、そろそろ政治評論家の舌鋒が激しくなる時期である。
 評論家の先生方も売り出しのまたと無いチャンスである。
 この時期に良く聞いておこう。
 でも、よぉーく聞いていると、所々「待てよ」と言う部分に気がつくのが、面白くも楽しい。
 一昨日のテーマではないが、どちらとも取れるコメントを流しているような評論家は「目クラマシ屋」でしかないのだが、それと似た様な事を舌鋒激しく論じている人が、時々これをやっている事に多分気がついていないのだろうが、その勢いに恐れを感じてか司会進行役の人も含めて誰もこれを指摘しない状況を見聞きする事がある。
 こちらは「声なき聴衆」であるから、そんなに熱くなる事も無いから、気がつくのだろうか。
 今はTVもラジオも「放送(送りっぱなし)」メディアだから、これでいいのだろうが、地デジ化を初めとしてそう遠くない時期に、完全インタラクティブな世界になってくるのではないだろうか。
 また、だんだん進んでくる3D時代にもなり「殴りこみ」と言う暴力沙汰にはならないけれど、双方向(インタラクティブ)に3Dが加わって、議論する番組がゴールデンタイムに行われれば、本音の百家争鳴の世界が実現できるのではないだろうか。
 そうなると、政治評論家だけではなく「評論家」と言う職業が事実上無くなってしまうのではないだろうか。
 私自身としては、そんな世界を望んでいる。
 また、そうなったら、気軽に参加したいとも思っている。
 勿論今よりも熱くなり、論理矛盾の発言にもなるだろうが、それをこそ望んでいて、素直に反省し、自分の知識や知恵に磨きを掛けたいと思っている。
 そうなると、中央、地域と言う差別が大分解消されると思うのだが。

投稿者:つねちゃん
at 09 :22 | 報道 | コメント(0 )

2010 年7 月2 日

選挙報道

 参院選挙投票日までにはまだ1週間以上もあるのだが、報道では「すでに終盤」との事
である。
 そんな訳で、どんな拠り所なのか知らないけれど、すでに与野党の議席数までが(あく
までも予想と断りつつも)実しやかに報道されている。
 残念ながら愚かな民衆としては、それにかなり影響されてしまうのではないだろうか。
 尤も、それに対しての反応も人それぞれだし、かつて経験した事に「あの人はもう大丈
夫だから、こちらの人に応援して」と言う噂が流れ、結局は「大丈夫」とされた人が落選
してしまった事があった。
 果たして報道各メディアは、そんなことを想定してやっているのだろうかと、毎回気に
なって仕方がない。
 別の言葉で言えば「アジテーション」ではないだろうか、もしくは「教唆・扇動」の類
かもしれない。
 ここでどれほど言っても「ごまめの歯軋り」でしかないことは判っているのだが、同様
な趣旨のことは一度新聞投書に取り上げられたから、二度とは取り上げてもらえないだろ
うから、読者の目を汚していると思いながらも、書かせていただく事になる。
 勿論、激昂したり、怒り心頭に発す(余談だが「心頭に『達す』」ではない)と言うほ
どのことではなく、あくまでもこのブログの趣旨としての「ノホホン」精神でのことであ
る。
 今度は反論的になるが、それにしても報道の力(予想力という意味での)とは見上げた
ものである。
 開票率0%にも拘らず「当確」が出るのは、何度か解説は聞いたものの、矢張りスッキ
リと理解しがたいのだが、上記のことは特例として、殆どの場合それが「当たる」と言う
事に毎度の事ながら驚く。

投稿者:つねちゃん
at 08 :57 | 報道 | コメント(0 )

2010 年6 月28 日

マスコミ人事

 このテーマは現時点ではすでに「過去の事」になっているが、むしろ参院選挙後にも言える事になるだろうから「今後の事」と思ってもらいたいと勝手な思いである。
 だから、文章自体は「過去の事」として綴ってゆきたい。
 ほとんどのマスコミ媒体は、さも自分が組閣でもするかのような気分なのだろうか、新政権に対しても、マスコミ各社が勝手な意見を言っている。
 これは「マスコミが言っているのではなく、そこに登場する評論家が言っている」との隠れ蓑を組閣決定後に言い訳のように言っている。
 マスコミとしてしっかりとした発言(それにしたところで結局野次馬の下馬評でしかないのだが)をするのであれば、まだ理解もするし「この媒体はこんなポリシーをもっているのだ」ということも考えられるのだが、組閣後は自らが何を言っていたかなどほとんど無頓着に「評論」をしているのを見るといったい何処に主体性があるのか、その媒体自身を疑って掛かる必要がある様に思えてくる。
 こうなると「無責任」という事になる。
 ここでも何度か書かせていただいたが、在職時に人事のお手伝いをさせてもらった事がある。
 そんなときに、どんな情報源かは判らないけれど、「ここには誰それだろう」などと耳打ちする者が必ず何人かはいたものだった。
 こう言われると合っていても、違っていても返事に窮したものである。
 それでも結果が上手く行けば(落ち度が無ければ)色々と言われる事は無いのだが、ソウでない場合は「だから言わんこっちゃ無い」と言われるのが常だった。
 私はあくまでも「お手伝い」で決定権は上司だったのだが、当然意見を聞かれたりするので全く無関係ではないので腹立たしい思いをした事があったが、直接の上司の思いを考えると怒り心頭に発する思いをしたものである。
 どうかマスコミ各媒体には、そのような野次馬下馬評をしないようにしてもらいたいと思っている。

 でも、今度の参院選挙は面白くなりそうだなぁ。

投稿者:つねちゃん
at 05 :46 | 報道 | コメント(0 )

2010 年6 月15 日

種が尽きた番組の悪あがき

 このテーマを思いついたのは、いつものように約2週間ほど前だから、現在ちょうど各局が番組改変期に当たっているのとは少し違うような気がする。
 まぁ、それはさておいて、続けて見ていると「あぁ、もうこれもネタが尽きたんだなぁ」と思う事がないだろうか。
 その兆候としては、まず内容が「マンネリ化」してくる。
 次に「作り話やでっち上げ」になり、針小棒大に取り上げてきて、最後は、出演者などに「嘘をつかせる」事になってしまう。
 最近はそれほどまで酷くなっているものは少ないかもしれないが、時として「えっ、こんな事が」と思うようなものに出会うと「あぁ、この番組ももう終わりなのだな」と思うようにしている。
 それならそれで「もう種が尽きました」と正直に言えばいいのに、対面などからそれが言えないのであろうと思うと、何だか製作スタッフが可哀相に思えてくる。
 在職中にも、いくつかの場面で「審査する側」になった事があるが、だんだん突き詰めていくと、これと似た様な事に出会い、生来短気だけど、何とか取り繕ってやろうと思っている小心者の私でも、腹に据えかねることもあり、それが本人だけでなく、上司などの後ろ盾で仕様がなくやっている場合には、堪忍袋の緒を切ったことも度々である。
 書き写しをやっている中で、水戸光圀の遺訓の中に「正直は一生の宝」と言うのがある。
 バラエティ番組の全てをそうしろとは言わないが、やはり正直がモットーになるのは、番組作りだけではなかろう。
 これは、番組作りばかりではなく、政治にもいえるのではないだろうか。
 何でも「初め」はそれなりに人の口に上るのだが、終わりになると誰も評価の対象にしなくなる。
 だから、その隙に官僚という人間が悪さを働き、悪あがきするのではないだろうか。
 そういう自分にもそんな事がないか、改めて身の回りを見てみると。。。
 自重、自重。  (^。^)

投稿者:つねちゃん
at 06 :42 | 報道 | コメント(0 )

2010 年4 月23 日

受け狙いのマスコミ

 「遅いだろう!」との指摘を承知で書かせてもらうが、最近気が付いた事に、マスコミの「無責任さ」がある。
 ずいぶん昔になるが、ノーベル平和賞をもらった時の総理大臣が記者会見でNHK以外のマスコミを締め出したことも、強ち間違いではなかったのではないかと思うほどである。  もちろん「見せられている」紙面や画面上だけでは気づかないことであり、それを良い事に、場合によっては「嘘八百」に使い様なことが報じられているのではないかと、下衆の勘繰りもしたくなってしまうのは、私ばかりではないのではないか。
 まずは、取材態度である。
 「知る権利」とか「知らせる権利」とかで取材対象が嫌な思いをしようが、それによってわが子の良い所を撮影できないような事態になっても構わずにカメラを構えてしまうことであろう。
 また、政治屋に対する質問についても、子供以下の質問をしていることが散見される。
 少し前の「秘策とは何ですか」、最近は「腹案を教えてください」というのは、聞いていて「日本語を判っているのだろうか」と思うばかりである。
 その結果、中途半端な内容しか聞き出せないので、自分の都合の良いところばかりを「切り張り」してニュースとして報道してしまう。
 結果として、アジテーション目的の記事ばかりになり、後で「そんな事は意図していない」と言うことになっても、それをすら「バラエティ」番組に仕立てる強欲さである。
 ネット社会で新聞が無くなるのではないかと言う意見もあり、十分ネットを使用している私でも矢張り新聞は永続して欲しいと思うのだが、こんなことなら矢張り必要ないのだろうかと思いたくなってしまう。
 紙面の都合や制約された時間内でという課題はあろうが、「憶測無く、正しく伝え」た上で、各社の意見を載せることが正しいと思うが、取材相手の揚げ足取りばかりしていたのでは、結局誰も見向きしなくなるのではないかと危惧するばかりである。
 もっとも、こう言っているこの内容自体が「アジテーション」ではないかといわれると、大きな反省もせざるを得ないのだが。

投稿者:つねちゃん
at 09 :23 | 報道 | コメント(0 )

2010 年3 月3 日

記者会見での愚問に失笑

 今回のチリでの大地震には、関係者の方々にお見舞い申し上げます。
 国内では、小学生の時にもあったチリ地震による津波報道を今回は興味深く見聞きした。
 だが、どうしてああも「馬鹿な質問」をするのだろうかと考えさせられることが多かったのは、決して私だけではないのではないか。
 「何時来るのか」「どれだけの大きさなのか」「具体的な対応はどうするのか」などは、発表時点で言われているにもかかわらず「何時」については何時何分までを求め、大きさについても「何処に何センチ」と言う具合の質問である。
 しっかり相手の言うことを聞き、自分の知識(地震と津波に関する)も総合して的確な質問をするのか「記者」なのではないだろうか。
 ここにも「インスタント社員」がもたらす滑稽図が示されているようで、最初のうちは腹が立ったが、そのうちに「ひょっとして、掛け合い漫才風な質問で笑いを取ろうとしているのではないか」と可笑しくなってしまった。
 そんな風に最近の記者の対応を見聞きしていると、まんざらそれが冗談ではないような気がする場面が多い。
 在職中に公の場での質問にはかなり気を払ったものである。
 それが引っ込み思案の原因になるのではないかと、最初のうちは質問できなかっのだが、ある時思い切ってした質問に対して「良く其処を聴いてくれました」と言う言葉に始まって丁寧に解説していただけた。
 それを契機に、質問する際にも「聞き漏らしたかもしれませんが」とか「勉強不足で申し訳ないが」とか「私の理解ではこうだと思いますが」とかの言葉を添えて積極的に質問したものである。
 記者と言うことであれば、それなりにその分野での知識を持っているのであろうから、決して「掛け合い漫才」や素人の質問などはしないようにしてもらいたいものだ。

投稿者:つねちゃん
at 09 :17 | 報道 | コメント(0 )

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