2011 年05 月20 日
過激な一時的活動ではなく持続的な活動が
これは今回の東日本の震災などばかりについての話ではない。むしろカテゴリーをそうしたように、「政治への注文」なのである。
在職中にある大きなプロジェクト(実はその元を作ったのが私だったのだが)を担当した時に、何度と無くトラブルに見舞われた。
その時に多くの人が解決のために「我も我も」というように会議に参加したり、議論百出、百家争鳴の如くに意見を出すのだが、そんなに簡単に短期に結論が出るものではなかったので、当事者としては翻弄されるばかりであつた。
そのうちに又別の事態が発生すると、またぞろ「我も我も」という事で、人が集中する。
そんな事の繰り返しだったあるときに、プロジェクトのトップから、大声で叱られた事があった。
「『餓鬼サッカー』のような真似はせず、自分の場所を心得て、意見を求められた時だけ発言しろ」という事である。
今回の震災もNZの地震被害も、もっと最近で言えば(私は食べないが)「ユッケ事件」も、マスコミをはじめとして、まるで「餓鬼サッカー」の如き様相である。
過激な活動が一概に悪いというのではないが、当事者として最も怖いのは、今回の津波の如く「引いたら終わり」というような活動ではないだろうか。
そうではなく、「継続、持続的な活動」が最も望まれているのではないだろうか。
病気でも「即効薬」は確かに必要だろうが、その後は即効的な効果は望めないものの、持続的効果が長く続く、薬が求められよう。
政治も同様にヒステリックになるのではなく、即効的な措置はやるとしても、その後は持続可能な安定した対策を当事者と共に考えて徐々に実行すべきだと考えるのだが、甘いのかなぁ。
投稿者:つねちゃん
at 10 :40| 政治への注文
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