2011 年05 月23 日
偏った報道に疑問
最近だけではないのかもしれないが、私自身の基本的な考え方として「報道は中立」と信じていた。ところが、どうもそうではないことに、遅蒔きながらだろうが、気が付いた。
ゴルフのトーナメントでは、必ず「人気者」が優秀を狙っているかのごとく書かれているし、相撲でも野球でも、スポーツについては殆どそうである。
どうもこのことはスポーツだけではなく、政治面でも、国際的外交問題についても、ある一つの事に付いてセンセーショナルに書かれていて、それが外れると、まるでダークホースが現れたかのごとき書き様である。
だから、だんだん新聞を初めとして「報道」には眉唾で視聴するしかなくなる。
昨今「(紙ベースの)新聞の退廃論」が時折聞かれるが、勿論私は反対である。
相変わらず余談になるが、朝目が覚めて寝ぼけ眼で新聞を取りに行き、配達している人に感謝しながら、ベッドで横になって読む時間は、至福のひと時の一つであり、絶対に無くなって欲しくは無い。
ところが、新聞に載っている記事が「偏重」になっていると感じたら、ウトウトしながらの至福のひと時が、疑問視に目をギラ付かせながら読まなければならなくなる、ということになると、起床する前から疲れてしまう。
優勝を狙っているのは人気者の選手ばかりでなく、参加者は全てそうであるはずだし、政治も外交も、経済も全て(頑張り方は違うとしても)「精一杯」にやって「覇権(言葉が適切ではないような気がするが、意思は然程違わないであろう)」を握ろうとして頑張っているはずである。
報道が、偏重して、実感は無いが、戦時中の「大本営発表」ではないけれど、意識誘導と言うような事が無いように、是非ともお願いしたいものである。
米国では「新聞を読んだ?」と言う言葉は、アナクロの嘲笑する言葉になりつつあると聞いたが、デジタルばかりではなく、何時までも紙ベースの新聞の存続を祈るばかりである。
投稿者:つねちゃん
at 09 :07| 報道
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