2011 年06 月08 日
「国の責任」で払う賠償を考える
マスコミを初めとして、「国家公務員」に代表されるような人が、いろんな不祥事を起こしていることの責任を「国の責任」と称している。それはそれである意味理解はできるのだが、その賠償になると結局「税金」で賄われるのである事を国民は正しく理解しているのだろうか。
「国が決めたこと」と言うのは「国民の選挙によって選ばれた人が、協議して決めたこと」であるから、その責は全て国民にある、と言うのが、ある一定の論理で、「だから賠償金は国民が納めた税金で賄っても差し支えない」と言う、「風吹きゃ桶屋」と言う怪しげな三段論法なのだろう。
今回の東電の事故についても、原発推進を決めたのは国だから、その賠償は(勿論全額ではないとしても)「国の責任」で賄うのが適切だとの論法である。
全く、直接的にはなんらの関与もしていない、国民の一人として、どうにも納得できない。
おそらく一般の国民の多くは「国の責任は当然だ」と言う事には、諸手を挙げて賛成なさるのだろうが、それに費やされる「費用」(賠償金など諸々の物を含んだ意味で)は国会議員さんが身を切る訳でもなく、役人が身を切る訳でも全くなく、全て「税金」で賄われる事に気がついているのだろうか。
もっと多くの人がそれに気が付けば、まず捻出する元を厳しく注目するのではなかろうか。
確かにインフラとしての電力会社を潰すわけにも行かないだろうが、役員報酬だけではなく「持ち出し」も当然だろうし、それを管理監督していた関係省庁の役人の給与などからも厳しく徴収して、尚且つ足りない部分を「国の責任」で、と言うのであれば、多少は納得も行くというものであろう。
マスコミも「国の責任が問われます」と言う言い方ではなく、「そのために貴重な税金が使われます」と言う言い方に代えれば、もう少し国民が「国」と言うものに目を向けるのではないだろうか。
投稿者:つねちゃん
at 10 :26| 政治への注文
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