2011 年09 月13 日
疑問や異論をもちながら読む論語
以前にも似たようなテーマで書かせていただいた記憶があるが、数多くの方々に愛読されて賞賛を得ている書物に論語がある。書き写しと同時に、その意味も「見ている(残念ながら読んで理解していると言うまでには至っていないという意味でこの言葉を使っている)」が実情である。
漫然と「そうだな、そうだろう」と受身で読むより、「これは俺の考えとは少し違うなぁ」とか、「そんなことは理解できるけれど理想論であろう」とか、色々な「異論」を持ちながら読んでみると、少しは理解が深まるのではないだろうか。
勿論、殆どの場合、私の異論が間違いである事は、判っていながらも、である。
本、と言う物はそれでも「(こちらが積極的に)見る・読む」と言う事でそういう意思が働いてみるのだから、まだ少しは良いとしても、TVやラジオから流れる「音」には、無批判に同調してしまう事がないだろうか。
原発事故が起これば「原発反対」と唱える事に「そうだそうだ」と賛成するのだが、そのくせ原発が無くなった時のために具体的に節電を「積極的に」やっているだろうか。
1000年に一度の震災に対して「対策が不十分だった」と評論家が言えば「そうだそうだ」と同調して、そのくせ対策のために税金を使うと言う話になると、「1000年に一度の対策になぜそれだけ今税金が必要なのだ」と反対論を唱えるのが常である人が多いのではないか。
事実私がそうである。
事ほど左様に、論語と言う書物ばかりでなく、相手の言い分を良く聞いて、自分ながらに「異論・反論」を作ってみて、「本当にそうだろうか」と言う疑問を持ち、立ち止まって考える必要があるのではないだろうかと、つくづく思う。
投稿者:つねちゃん
at 10 :39| 健康
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