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2011 年11 月18 日

読めない字

 9月から、松下幸之助発言集を読んでいる。
 これからもこの著書からヒントを得た、と言うより共感した話題が時々出現することをお許し願いたい。
 今回はその1回目として、このテーマを取り上げた。
 
 氏がかつて高名な人の手紙を見る機会があり、皆が盛んに感心していると言うのだが、氏にはさっぱり読めなかった、と言う話である。
 「いくら高名な方の立派な文字でも、一般の人に読めないのではまずい」と主張されて今まで感心なさっていた先生方の共感を得た、と言うものである。
 
 時期的には少し過ぎたが、芸術の秋にいろいろな所で展示会があり、私もその本来の良さは判らないながらも、家内に「好きなものだけを見れば良い」と言う指導で写真や絵画を見て回る。
 ところが「書」の部だけは敢えて見ようとはしないし、通路の順で掲示してあっても、むしろ急ぎ足で通り過ぎるくらいである。
 それくらい「判らない」のである。いやいや「読めない」のである。
 書いてある文章や詩などがその意味は理解できないまでも「読める字」で書いてあれば、それなりに「見ても良いかな」位にはなるのだろうが、全く判らない文字らしき墨蹟であると、「見て感じる」こと(当然決して良い感じは持たないだろうから)自体がその人にとって罪悪のように感じるからである。
 我が家にも、父の時代に元県知事だった人の書額「正直第一」というのが、座敷の長押に掛けてある。
 元県知事の書だから大事にしている訳ではないが、書いてあることは誰にも読める(尤も右から書いてあるので孫には解説しなければならないが)ことばであるから、そのまま掲示してある。
 中国へ旅行した際に、「寒山寺の住職の書である」と言うものを買って来た。
 たぶん本物ではないだろうし、印刷だろうから、そのもの自体に価値がある訳ではないのだが、「知足常楽」と書いてある。
 五行律詩、と言う掛け軸があるが、これは全く読めない字が並んでいる。

投稿者:つねちゃん
at 06 :39| 日記 | コメント(0 )

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