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2012 年01 月19 日

不信心者の「南無阿弥陀仏」

 特別信心が深い訳でもなく、神様には「苦しい時の」で、ずぅーーーっと通して来た。
 最近になって気が付くのだが、毎朝(ご飯を炊いた日だけだが)仏壇に「お仏供さん」をあげ、蝋燭に火を灯して、線香を燻らして(この表現が結構好きである)、仏花の水を代えるのが「日課」になっている。
 これは、多分父が亡くなってからの事だったろう。
 このときに、多分子供の頃からの「習い性」だろうが、口から出るのは「南無阿弥陀仏」と言う言葉である。
 確かに、今まで「書き写し」と言うことで、仏教関係の物を手本としていたが、それだって「信心から」のことではなく、「偶々」そこに適当な手本があったから、なのであって、信心とは遠い掛け離れがあるのだと、むしろそちらこそ「信じていた」くらいである。
 でも、習い性も「門前の小僧」なのだろうか、自然と口を付いて出ると言うことは、何がしか「信心」とやらに近づいているのかもしれない。
 伊達正宗だったか、別の人だったかの本で読んだが、偉いお坊さんに「これだけのことをしたのだから、何がしかの見返りがあって然るべきだが」と尋ねたのに対するお坊さんの答えが「無」だったと聞く。
 上記のことに気が付いてから、無理やりかもしれないが、思ったのは、それが南無阿弥陀仏だろうが、アーメンだろうが、「唱えられる」と言うことは「生きている」と言う証なのだから、それをこそが「見返り」と思うことにしている。
 だって、彼岸に行って良い思いをしていたところで、唱える(と言う能動的な)ことはなく、唱えられる(と言う受動的なこと)だけなのだろう。
 さすれば、能動的なことが出来る「今」に感謝しながら一日、一時、一秒を過ごせばいいのではないか、と。
 うんうん、仄々ではないけれど、これも一興だろう。

投稿者:つねちゃん
at 08 :59| 日記 | コメント(0 )

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