2012 年02 月28 日
音楽の「カバー」は結局「物まね」
一時期のシンカーソングライターの時代は、好き嫌いはあったものの、みんなそれなりに「頑張っているぞ」と言う気迫が感じられた。それが最近は「カバー」という言い方で、昔の歌を歌っている。
確かにテンポやリズムなどはそれなりに変化があるのだが、聴いていて「詰まらなく」なるのは私だけだろうか。
「カバー」は多分英語の「Cover」だろうと思うが、辞書を引いてみると色々な意味があり、そのどれらをとって見ても、日本語としての表現として人気が得られる言葉では無さそうで、カタカナ表記のカバーと言うことになるのだろう。
カタカナ表記には「舶来物好き」な日本人にとってはあまり嫌悪感をもたれないばかりか、一種の憧れ的な響きがあるから、そんな効果も狙っているのだろう。
それにしても、感情は別にして「歌唱力」と「アレンジ(これもカタカナ表記の誤魔化しだろうが)」によって、まるで「私のこれがオリジナルです」的な演技をやっていると、なんだか白けてしまう。
かといって、麻薬に犯された頭で思いついた歌詞とリズムで歌ったものに熱狂的になることも果たしてどうなのだろうか。
かつての東海林太郎や藤山一郎的な謹厳実直な歌ばかりを好むのではないが、数曲が売れただけで、後は殆どが「カバー」だとする能無しタレントや歌手が蔓延ることは、それを煽る事務所やマスコミにも多くの原因があるだろうが、やはり「本物の」シンガーソングライターや、プロとしての作詞・作曲者による物の方が、長続きするし、人の心を打つものであろう。
ヒットチャート的にはあまりパッとしないもの(たとえば最初の頃の「孫」のような)の方が「キラリ」と光る物が多くなることを好みたい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :19| 日記
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