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2012 年07 月09 日

「私が」と「私の」では大違い

 黒田節の替え歌の「猥歌」として、よく知られた文句に次のようなのがあるのは、ご存知だろう。
 「裏の畑に/山芋植えて/太くなれ/長くなれ/毛も生えよ/そしたら「私の」すり鉢で/とろろになるまでこすりましょう」
 この「私の」を「私が」に変えると猥歌でもなんでもなくなる。
 ということは、適切な場所で言い換えられる、と言うことである。
 「私が」であれば、子や後輩の成長を祈り、行く末は、私が世間の荒波に負けないように色々と教えて立派に成長させてあげましょう、との理解になるだろうから、「祝い歌」であろう。
 「私の」と言うことになると、「私の持ち物で」と言うことになり、「すり鉢」と言うと、女性の局部の隠語にもなっているから、山芋の正体が、なにやらそれに見合うような代物に思えてきて、「猥歌」と言う次第になるのだろう。
 さてさて、日本語と言う物は、面白い物だと言うことが、最近改めて気が着いた話題である。
 今は余りTVでやられないが、寄席演芸の一つで(正確には覚えていないが)「付くと付かぬで大違い」と言うゲームと言うか余興があるのをご存知の方も多いだろう。
 どちらかは「なんでもない」ことなのだが、反対側は「飛渡も無い」様なことにもなる。
 当時は、それをまねて、余り卑猥にならない程度に、職場の飲み会などで披露もして、爆笑だったり、哄笑だったり、冷笑だったりを受けた思いがある。
 今は余り思い出せないし、思い出すのは「卑猥極まりない」物が一つ二つ思い出されるくらいで、とても紹介する訳には行かない。
 結果は紹介できないが、設問(?)の例は「濁点が付いたり付かなかったり」とでもしておこうか。
 こんなことを終日考えて悦に入るのも楽しいではありませんか。

投稿者:つねちゃん
at 06 :34| 興味あること | コメント(0 )

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