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2012 年07 月11 日

何かそのまま〇〇するのも何だった

 日本語を初めとして、言葉における「文法」と言うのは、「国語」と言う教科は全体的にはそこそこ成績が良かったのだが、動詞や名詞は判るのだが、助動詞や助詞などとなると、全くと言って良いほど理解できない。
 ましてや、その応用なのだろうが、連体形や連用形などと言う言葉が出てくると、もうそれだけで嫌になってきてしまう。
 かてて加えて「枕詞」などという類の物は「ハイハイ」と理解する気持ちにもならなかった。(過去形である)

 そんな中で、先日、表記のような表現がラジオから流れてきた。
 もともとの文章には、〇〇に入るのは、「帰る」である。
 これは富山便に似通った言い方なのだろうか、それとも優柔不断な私自身の性格から出る言葉なのだろうか。
 ラジオのアナウンサーと言えども、結構富山弁を使う人が言っているのだから、何も私に限ったことではないし、年齢的には私よりも二周りほど下の若い人であるから、加齢による言葉の呂律の問題でも無さそうである。
 でも、自分も同じフレーズを使って日記を書いていることが振り返ってみると度々あった。
 最初の「何か」は多分言い出そうとする時の「枕詞」的な物だろうか、最後の「南だった」は文法上の整理は判らないが、「言い訳」をするために使われている言葉ではなろうか。
 改めて自分の言葉を「標準語」(これ自体が理解できない言葉なのだが)に直してみると、「特別何をしたい訳ではないけれど、単純に〇〇するのは気が引ける」と言うようなことになるだろうか。
 いやはや、自分の言葉自体に解説が要る様だと思うと、なんだか情けないのか、それとも楽しいのか複雑な気持ちである。
 尤も、そんな言葉を聞いている人にとっては、なんとも「不可解」なのかもしれないが。

投稿者:つねちゃん
at 06 :40| 健康 | コメント(0 )

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