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2012 年10 月30 日

マスコミの「知る権利」の濫用を危ぶむ

 戦後の生まれだから、戦中における報道管制ということは、現実には知らず、歴史ドキュメンタリー番組などで、塗りつぶしの紙面などを見せられて、思うだにぞっとすることがある。
 だから、「大本営発表」だけを無意味に流すことに意味がないことは、充分すぎるほど理解している心算だが、それにしても、最近のマスコミ報道はなんとも情けなくなってくる。
 勿論「素晴らしい記事だナァ」と思うものは沢山あるのだけれども、一部の「情けない報道」でそれらが隠れてしまうことも少なくない。
 「何でも知る権利」だから、自分が理解出来る、出来ないに関わらず(殆どの場合正確に理解出来ているとは思えないのは、私の僻目なのだろうが)「根掘り葉掘り」聞きまくる。
 それだけならまだしも「穿った見方」や「訳のわからない仮定の基での質問」などもぶつけている。
 聞いているほうも、多分だが、「知ってどうする」かが全く見えておらず、いたずらに世情の混乱を招いているだけのことが、余りにも多すぎる。
 前にも書いたが、「秘策は何ですか」と聞いて、答えないと「秘策は無い様だ」と論じるにいたっては、馬鹿としか言いようが無いのではないか。
 たとえば、秘策を聞いたら、その人はどのような行動に出るのだろうか。
 「これがあの人の秘策だそうだ」と特ダネでも取った様に吹聴するのだろうか。
 最近の外交についても、遮二無二聞きだして、本来の外交に至る前に手の内を相手に見せてしまっているような報道はないだろうか。
 外交と言うものは直接は知らないけれど、それに限らず「交渉ごと」と言うのは、直接その場で相手の出方を見ながら行うものだと言うことは、現職時代にもよく経験した。
 「国民にだけ知らせる」心算かもしれないが、ある意味で言えば「記者」と言う名を借りたスパイ行為であろう。
 尤も、そんな言葉尻や素行を捕まえられるような政治屋が居ることも情けないのだが、残念ながら、それらを選んでいるのは、国民だから、嗚呼。

投稿者:つねちゃん
at 06 :40| 報道 | コメント(0 )

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