2013 年04 月03 日
捕らぬ狸の皮算用
政治の世界や金融の世界ばかりの話ではないだろうし、国際間のいわゆる「外交」についても、どうも素人目には、表題の通りになっているのではないかと思えてしようがない。「言っただけ」での影響で、いろいろなものが、表題通りに動いてしまう。
また、「言われただけ」でも同じような様相を呈している。
昔からあまり好んで読むほうではなかった本の種類に「歴史物」がある。
武将などの名前を覚えて、それを引きづり乍らストーリーをたどっていくのが、苦痛だったから、というのが根本原因だったし、ましてや、その前後関係や土地を離れた武将などの動きの同期合わせが苦手だったからである。
それが、本社勤務になって、片道の電車の時間が1時間ほどあり、幸いに乗ってすぐの駅が乗換駅だったので、容易に座れた時に、最初はビズネスものを読んだのだが、人から勧められた「徳川家康」を読んでから方向が大きく変化した。
秀吉、太閤記、信長、信長記、二代将軍の秀忠(あまり捉えられていないことから)、水戸光圀(黄門ではなく)等々思い出せないほどたくさん読んだし、徳川家康は3度は読んだだろうか。
そんな中で、武将が考えることは「果たしてこれは『本当のこと』なのだろか」と熟考しての決断だった様に思う。
それも当然で、それによって常に「生きるか死ぬか」の背水の陣での判断が必要だったからだろう。
それが今、政治家は「どうにかなるだろう」だし、投資家は「最低の被害にとどめられれば、他人がどうなろうと」だ。
ましてや、危険な玩具としてしか捉えていない「核」を脅しの道具に使い、それによって戦々恐々とする外交も甚だ心許ない。
情報が大きな武器となっている現在、もっと熟考を重ねて判断すべきだと思うのだが、ごまめの歯ぎしり、蟷螂の斧でしかないのが残念だ。
投稿者:つねちゃん
at 08 :29| 健康
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