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2013 年12 月04 日

 「難読後の由来」の音読を終えて

 朝起きて、幾つかの本の音読を続けていて、今回表記の本の音読が終わった。
 本の内容は「えっ、こんな言葉が読めない人がいるの、とか、へぇー、こんな言葉にはこんな由来があったのか、とか、なんという読み方をするのだろう、一つ一つの漢字の意味はどうなんだろう、と電子辞書を繰りながら読み進めるのも楽しみの一つである。
 そんなことから、以前にも紹介したように「自分って、どんなに『もの知らず』だったのだろう」と思うことがしばしばである。
 この本に限らずだが、「知っているようで、知らない」ことがあまりにも多いのに気が付くと、かつては「なんと俺は馬鹿なんだろう」という感情に陥ることが多かったが、最近は「なんと気づかせていただいて有難いことか」と素直に思えるようになっている自分に気づくことがなんとも楽しい。
 在職中は、落語の「薬缶」ではないが、ある地位になると「それはそうだね」とかと「知ったかぶり」をしていて、後でもう一歩調べ進めて、後日「そういえば、この前のあれには、こんなこともあるんだってね」などと嘯いていた自分を今恥ずかしく思い出す。
 先日も、孫から夕食の時に「アーメン、ってどんな意味?」と聞かれ、家内も母親である娘も答えられなくて、こちらに回ってきた。
 宗教というものや仏教というものにはまだそんなに理解がないことだから、母が亡くなった時のことは覚えているだろからと「お参りするときに『なむあみだぶつ』と言っただろう。その時の「なむ」に当たるキリスト教の言葉だよ。」と教えた。
 分かったのかどうか分からないけれど、それ以後の質問はなかったので、正直ホッと胸を撫で下ろしたが、当たらずとも遠からずではないだろか。
 音読もこんな効果があるのが、なんだか楽しくなったのと、まだまだ突っ込まれたら答えられないなぁ、と知識の足りなさを実感した。
 それもまた楽しである。

投稿者:つねちゃん
at 06 :51| 健康 | コメント(0 )

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