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2014 年06 月09 日

実はまだほとんど分からない宗教

 このテーマになってまだわずかでしかないのに、結論じみたことを言うのは、だいぶん気が引けるのだが、多分いつまでたっても同じことだと思うから、まず自分の不甲斐なさを先に紹介しておきたいと思っている。
 般若心経が宗教かと言う疑問はまだあるが、当時はそれなりに暗唱できるくらい繰り返し、解説本は図書館を利用して大分読んだので「無」と言うことがわずかだが自分なりに理解することができたように思う。
 「我に固執せず」と言うのが私なりの結論だった。
 正しいかどうかは論のあるところだろうが、私なりの当時の理解で、仕事に困った時にも、単身赴任中だったこともあり、自室で繰り返し声に出して自問自答して、翌日にはそれなりに「晴れた気分」で出勤したものである。
 そういう意味で、随分「お世話になった」と言う気持ちだった。
 リタイア後、我が家の宗教である「浄土真宗」に然程真剣ではないものの、それなりに時間を使っている。
 最初は「正信偈」だろうということで、テープを買い、その内に「お風呂でやろう」と言うことで、デジタルオーディオを買った時から湯船で繰り返して聴いて、時々口に出して唱えたりしたものである。
 ところが、ある時から、それは「お経ではない」と言うことが耳に入り、それから今でもまだ細々と続けているのが、「浄土三部経」と言うものである。
 これはとても繰り返し聴いても覚えられるものではないので、区切りが適切かどうかは分からないが、自分なりの区切りをつけて、一日一度読んでいる。
 ところが、正直なところ「全く意味がつかめない」と言うのが本音であり、テーマタイトルのごとく「分からない」につながっている。
 でも、少し前から「分からないのが楽しい」と思えるようになってきた。
 いろいろな先人も、高僧と言われる人も、同じ宗派でも理解が違うようなことも聴いているから、真に「お釈迦様」の言ったことを理解している訳ではないのであろう。
 凡人は凡人の如く、勝手に理解すればいいのだと思っている。

投稿者:つねちゃん
at 05 :54| 健康 | コメント(0 )

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