2017 年10 月05 日
音読と書き写しで感じること
私の「音読と書き写し」の目的は、以前から主張しているように「活舌の自認識」と「指先を動かすことによるボケ防止」である。 ところが、人間と言う物は、「欲な者」で、字面を声で追っていたり、文字をなるべく「丁寧に書き写す」ことだけだと思っていたのだが、いつか「何を言っているのだろうか」と理解しようとしている。 正直なところ、現在そのことに引っかかっているものは「一日一禅」「菜根譚」「教行信証」である。 菜根譚は、以前に二度やっているので、その時はあまり意識せずに書き写しと音読で済ませてきたのだが、最近はそれも「そうかなあ」とか「理解できないなぁ」とか「理解しようとして、理解できない」と言う、何か靄がかかっているかのように感じている。 暫く「悩んでいたが」理解できた。 「よく解らないのは、解ろうとしていないからだと」と言うことに。 禅の問答や、親鸞が悩み考えたことが、解る訳がないのだと。 欲を出さないように、書き写しと音読を続けていきたい。
投稿者:つねちゃん
at 08 :26| 健康
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