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2011 年7 月23 日

中国人船長強制起訴

那覇検察審査会は21日、中国人船長を公務執行妨害罪、艦船損壊罪等被疑事件で強制起訴議決をした。「市民の正義感情を反映させるため」とはいうものの、国家主権の行使、国家の国際関係に関わる起訴権限を、「市民の正義感情」で行使することを許容することは、国家・公権力行使の制度設計として基本的に誤りというべきではないか。

しかも、報道でも指摘されているとおり、起訴したとしても、起訴状が2ヶ月以内に送達されなければ公訴棄却となるのでるから、現実にはそうなる公算が高いだろう。そうすると、逆に、起訴の「威信」が失われてしまう。

小沢事件のときとはまた別の観点で強制起訴の問題点が明らかにされたというべきだ。

投稿者:ゆかわat 08 :54 | ビジネス | コメント(0 )

2011 年7 月21 日

被災地がれき処理に壁

今朝のNHKニュースで、被災地のがれき処理を広域で行っていくうえで、各地で放射能汚染やアスベスト等の付着を理由に受入拒否を求める住民の声が壁になっているという報道があった。
気になったのは、その中で、市の清掃担当の職員が「早く国の方で安全基準を作ってほしい。どれくらいであれば安全なのかを示してほしい。」と言っているのがあった。「安全基準」は国が示すべきものなのか。国に「安全」を押しつけて、なにかあった時の住民の批判を国のせいにするのだろうか。自治体自身が住民の安全を確保できる安全基準を策定して、自治体が責任を負うのが分権であり、自治事務としての一般廃棄物処理ではないのだろうか。

投稿者:ゆかわat 07 :34 | ビジネス | コメント(0 )

2011 年7 月17 日

ごみ屋敷問題・不用品回収業者問題

自治体合同法務研究会2日目。
今朝は、ごみ屋敷や不用品回収業者に関する分科会2つに出た。
やっぱりよく分からない。廃棄物とは何なのだろう?

 廃掃法は廃棄物について「廃棄物とは、ごみ、粗大ごみ、燃え殻、汚泥、ふん尿、廃油、廃酸、廃アルカリ、動物の死体その他の汚物又は不要物・・・」と定義している。「不要物」とは自分にとっての不要物かとも思われるが、法の列挙事由から判断すると、全くの使い物にならない不要物を指すようだ。前者であれば、一度聞いてもういらないやと思ったCDなんかも「不要物」に入りそうだが、後者であれば「不要物」には入らない。そうすると、結局は、有償で譲渡できるかどうかが「不要物」かどうかの判断基準になりそうだ。しかし、古タイヤのように、ガソリンスタンドでタイヤ交換をしたらごみとして処理費用をとられるが、古タイヤ専門の引取業者に持っていけば有償で引き取ってくれるようなものはどうなるのだろう。しかし、そもそも、この古タイヤのように、誰に渡すかによって不要物になるかどうかが変わるというのはおかしくはないか。

 また、震災廃棄物のときに問題になったように、誰が見てもごみにしか見えないがれきであっても、所有者がこれは大事な形見だと言われれば、有償で譲渡できなくても、不要物にはあたらない(私個人的には、これは不要物であって、廃掃法に基づく処分をしても廃掃法上は適法だが、所有者の承諾を得ていないから不法行為に当たると思うのだが、法制度として矛盾しているようにも思う。)。

 そうすると、現行法の「廃棄物」の定義では迅速で有効な廃棄物処理ができないのだから、廃棄物の定義に「みなし廃棄物」(市町村長の認定により廃棄物とみなされる)の規定を置くことが必要ではないか。

 ごみ屋敷問題の対処法として、今日の報告は、環境マターではなく、福祉マターとしてとらえた報告がなされた。なるほど。ごみ屋敷問題の発生原因を探ると、高齢者福祉・セルフネグレクトの問題に行き当たる。周辺住民からの苦情からのみ問題をとらえて、公権力を行使してごみを撤去したとしても、その原因の手当をしなければ再びごみ屋敷が発生するだけだ。目から鱗の報告だった。

 ところで、私も今までごみ屋敷については廃掃法19条の7で措置命令をうつことなく、直接施行できるのではないかと思っていたが、確かに法19条の7は法19条の4の場合とあり、同条は一般廃棄物処理業者がごみの違法保管・処分をした場合を念頭に置いているから、排出個人自体が一般廃棄物処理業者を通すことなくごみ屋敷をつくった場合は想定していない。そうすると、廃掃法では対処のしようがない。

 これに対処するためには、条例を制定して、適正にごみを処理せず、生活環境の保全に支障を生じさせた場合は、市町村長はその者に命じてごみを適正に処理させ、又は必要があるときは、自ら又は第三者に委託してごみを適正に処理することができる旨の措置命令・直接施行(即時強制)の条文を置いて対処するしかないのだろう。


投稿者:ゆかわat 21 :47 | ビジネス | コメント(0 )

自治体法務合同研究会厚木大会

毎年、全国の自治体職員有志が集まる法務研究会。去年は参加できなかったが、今年は神奈川県厚木で開催された。

全体会のパネルディスカッションは、松沢前神奈川県知事もパネリストとなっておられていて、条例づくりのいろんな隠れた努力を聞けたのも良かったが、何よりも興味深かったのは、大阪府下の1市職員が松沢前知事と対等な立場で政策法務について議論をしていたこと。分権時代の象徴だ。

分科会では、「コミュニティ形成のためのまちづくり条例」の分科会に出席した。渋谷区のまちづくり条例をコミュニティ形成の観点からその意義と課題を報告したものだ。

 それを聞いて、ワンルームマンション規制条例の立法事実が以前からよく分からなかったが、コミュニティ形成にあると考えると、その立法事実の意味が分かった。
 と同時に、紛争予防条例の先進自治体である渋谷区ですら、あっせんに至るケースもないし、調停に至るケースもない。たまにあっせんに上がっても、周辺住民と事業者とが言い合って終わるだけということだった。

 それを聞いて考えた。私も京都市の建築紛争予防条例の建築紛争調停委員会委員になったが、京都市でもその周辺市でも同じように利用状況は低迷している。
 しかし、考えてみれば、それは建築基準法のようなデジタル型の法令と同じようにまちづくり条例の運用をしているからではないか。建基法はデジタルな基準を設定する。それは基準に適合するか、白か黒か、しかあり得ない。まちづくり条例の「協議」も同じように運用されるとすれば、およそ「協議」など成立するはずがない。まちづくり条例をデジタルに、建基法と同じように運用するから、条例の趣旨が活かされないのだ。

 そもそも「協議」とは基準適合性ではなく、お互いの利益を適正に配慮すること。そこにはデジタル型の解はない。いくつもの複数の解がある。刑事裁判で言えば、有罪か無罪かはデジタルにしか決まらないが、量刑には懲役7年もあれば、無期もあるようなものだ。最近、最高裁ではやりの「配慮」型の判決も同じようなものだろう。言い換えれば、訴訟から非訟への流れの中にある。
 条例の「協議」の趣旨を活かした運用を再構築することによって、コミュニティ形成も可能となるのではないか。そのようなことを考えさせられた。


投稿者:ゆかわat 08 :33 | ビジネス | コメント(0 )

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