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2013 年7 月28 日

行政法研究フォーラム 改正行訴法を検証する

27日は東京・早稲田大学で開かれた行政法研究フォーラムに参加してきた。テーマは「改正行政事件訴訟法施行10年の検証」である。 行訴法改正点である原告適格、義務づけ・差し止めの訴え、仮の救済、確認訴訟について、 実務家からは元裁判官の中島先生と弁護士の水野武夫先生、研究者からは深沢先生と山本隆司先生が報告した。 私なんかが実務的に直面する問題としては、義務づけ等の新しい訴えの類型よりも、やはり昔ながらの取消訴訟における原告適格の問題が重要だ。 水野先生は憲法の裁判を受ける権利を引き合いに出しながら、改正行訴法はまだまだ不十分であり、原告適格の認められる余地はもっと拡大すべきだとしたのに対し、裁判所及び研究者は改正法の趣旨は十分に実務で生かされていると肯定的に評価していたのが印象的であった。権利利益侵害があるのに行訴法があることによって裁判を受ける権利が侵害されているではないかというのが水野先生や私の認識・評価であるのに対し、権利・利益の侵害があるのかどうかをスクリーニングするのが原告適格の役割であり、改正行訴法はそのスクリーニングとして十分に機能しているという。要するに、権利利益の侵害がないから原告適格が認められていないだけだから、裁判を受ける権利の侵害もないというわけだ。 行政訴訟が登場するのは行政法規においてだ。行政法規は、大きくくくれば公益の保護・実現を目的としている。そうすると、行政法規違反があったからといって、直ちに個人の権利利益が侵害されたということにはならない。司法権は個人の権利利益の保護を目的としているから、行政法規違反=違法な行政活動があったからといって、直ちに取消訴訟を提起できるわけではない。そこで、行政訴訟において司法権を発動するための要件をもうける必要がある。それが行訴法9条1項の法律上の利益=原告適格というわけだ。 こういう理解を前提とすると、大阪サテライト訴訟(自転車競技法に基づく場外車券売場の設置許可の取消しを周辺住民が求めた事案でその原告適格が問題となった)では、周辺住はサテライトの設置により生活環境利益が侵害されているというのに対し、裁判所は司法権を発動して救済しなければならないほどの利益の侵害があるとはいえないと判断したと整理される。 ここで感じるのは、生活環境利益の吟味・掘り下げが必要と言うことだ。 原告としてサテライトが設置されればまさしく生活環境が悪化すると考える。それに対し、裁判所は生活環境利益というのは一般公益であるし、自転車競技法は周辺住民の生活環境利益を個別的具体的に保護してるとまでは解せない。どうも議論にすれ違いがある。原告はまさに被侵害利益の性質や侵害の態様・程度という事実・実体を問題にしているのに、裁判所はサテライト設置許可を定める自転車競技法が保護している利益の性質(当該法規の規範解釈)を問題にしている。 中島先生は、行訴法9条2項は法令の趣旨目的解釈と被侵害利益の性質という二つの要素を含んでいるが、それらは相対的なものだと言われたが、サテライト訴訟はまさにそうなのだろう。被侵害利益が人の生存にとってのコアの利益ではなく、ある意味人によって受け止め方も違うということになると、どうしても法令の解釈が全面に出ざるを得ないということか。 しかし、やはり釈然としない。被侵害利益の捉え方が民事訴訟に偏りすぎているように思う。それも、利益侵害を民事の差し止め訴訟と同レベルで考えている。私は中島先生に、原発から80km離れたところに居住する住民が原発の差し止め訴訟を提起する場合と、原子炉設置許可処分の取消訴訟を提起する場合を考えたとき、民事差し止め訴訟では原告適格などは問題にすることなく本案審理に入るのに、取消訴訟だけ原告適格を問題にして本案審理にも入らないのはおかしいではないかと尋ねたとき、中島先生は民事でも差止請求についてはそのような請求権はそう簡単には認めないのと同じだと回答された。 ここに問題の本質が明らかになったように思った。 日本の行政訴訟の問題は、民事の裁判官が民事訴訟とのバランスを意識しながら行政訴訟を運営しているところにあるのではないか。司法権や利益侵害を民事訴訟的に理解するのが正しいのであろうか。あえて民事訴訟とは別に行政事件訴訟法を定めて抗告訴訟の類型を認めた趣旨を、もっと広く、本来の趣旨に照らして考え直してみる必要があるのではないか。

投稿者:ゆかわat 22 :11 | ビジネス | コメント(0 )

2013 年7 月27 日

司法試験合格者削減の意味

26日の日経朝刊の「大機小機」の吾妻橋さんの署名記事だ。

法曹養成制度検討会議の結果である「司法試験合格者3000人目標の撤回」はおかしいとする。その理由はこうだ。「現状の約2000人の合格者でも、就職先となる法律事務所が不足し、弁護士の就職難が深刻なためというのが理由だ。実務経験の乏しい弁護士が司法サービスを担えば、消費者にも被害が及ぶという。しかし、こうした法曹界の論理は妥当なのだろうか。(略)「難関の司法試験の合格者は高給を得るのが当然」という常識を変えれば、合格者の就職先も、法律事務所に限定される必要はない。医師国家試験と同様に、法曹として必要な最低限の知識を問う「資格試験」と位置付ければ一般企業でも有資格者は歓迎され、就職先は逆に広がる。筆記試験に合格しただけで、十分な収入が保証されるギルド社会のほうがむしろ弊害は大きい。」

誠にその通りだ。司法試験は純粋な資格試験とし、法律家となる最低限の知識と能力があれば、3000人以上であろうが合格させるし、逆にその水準に達しなければ、1000人未満であろうが、合格させない。当然のことだろう。現状がそうなっていないのは、約2000人以上合格させていないのは司法研修所と実務修習受入れの容量の問題があるからだし、1000人未満とならないのは、安定的に修習を実施するためだ(もっとも、その理由は明らかにされていないから、だと思うとしか言えないが。)。
未熟な弁護士がいることで消費者にかえって弊害が及ぶというのは、それは昔だって同じであるし、逆に最近のめまぐるしい法令の制定改廃についていけないロートル弁護士の方が社会にかえって弊害をもたらす。結局、法曹人口を抑制するというのは、弁護士の自己中心的な、ギルド的発想の産物にすぎない。

そして、「多様な専門知識を持つ人材が法学の基礎を身に付ける法科大学院の役割はますます重要になる。現在、議論されている司法試験の合格率を基準とした法科大学院の統廃合は、これに逆行する動きだ。」これも誠にその通り。

「成長分野である法務サービスは、市場競争を通じた淘汰と適切な評価で質を高めるべきだ。全体の供給を制限する護送船団方式に固執すると、日本の経済にとって、コメの減反やタクシー台数抑制を上回る大きな損失になる。」

本当にその通りだ。いつから、弁護士会も大学も、こんな自分の目先の利益しか考えずに国家制度を動かすようになったのだろう。弁護士会こそ「公共哲学」と行政法を身に着けるべきだ。


投稿者:ゆかわat 08 :35 | ビジネス | コメント(0 )

スイカデータ外部販売は違法か

26日日経朝刊に、JR東日本がスイカの乗車履歴などのデータを利用者に事前に説明せずに日立製作所に販売していたことが載っていた。JR東日本はスイカでの乗車駅、利用日時、鉄道利用額、生年月日や性別などのデータを提供しているが、名前や連絡先など個人を特定できる情報は含まれていないから利用者に事前説明しなかったという。

個人情報保護法は「個人情報」とは、生存する個人に関する情報であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるものをいい、「個人情報データベース等」とは、 個人情報を含む情報の集合体物であって、特定の個人情報を電子計算機でを用いて検索することができるように体系的に構成したものをいい、「個人データ」とは、個人情報データベース等を構成する個人情報をいい、「個人情報取扱事業者」とは、個人情報データベース等を事業の用に供している者をいう。そして、個人情報取扱事業者はあらかじめ本人の同意を得ないで個人データを第三者に提供してはならないと定める。

個人情報取扱事業者が禁止されるのが「個人情報データベース等の外部提供」であれば、氏名や生年月日などの個人を特定できる記述が除外されていれば個人情報保護法には反しない。しかし、注意すべきは、法が禁止しているのが個人情報データベース等ではなく、その構成要素たる個人データであることだ。氏名等の特定の個人を識別できる記述が除外されていたとしても、個人データを外部に提供することは法が禁止するところだ。

うっかりすると陥りやすいミスだ。


投稿者:ゆかわat 07 :41 | ビジネス | コメント(0 )

2013 年7 月13 日

宝塚市役所放火事件

 新聞報道によると、市税の督促や滞納処分等市役所の対応に不満の市民が火炎瓶やガソリンを投げ込んで放火したという。
日経新聞の記事によると、宝塚市役所の市税収納室長は「税の滞納を巡り、窓口で大声を上げる住民が数十人いる日もある」という。

この事件を、これまでの市職員や弁護士会の視点で見ると、危機管理のあり方や市税取立ての効果的で実効的なあり方の不足ということになるのだろう。もっと上手に対応していたなら、こういう事態は回避できたのに、というわけだ。

しかし、市民の視点からこの事件をみるとどうなるか。難しいのは、この場合、市民の視点といっても、複数に分かれる。
苦しいながらも市税は滞納せずに、また滞納しても頑張って分納している市民からは、支払わないといけないものなのに逆恨み・逆切れもいいところだと批判されるだろう。
他方、生活や資金繰りが苦しく市税を滞納している市民からは、よくやってくれたと拍手喝采する人もいるだろうか。

この問題の根底には、税金や役所・行政というものについての市民の認識・理解と、市職員の認識・理解のずれがあることに注意すべきだろう。
現行の法制度を所与の前提とすれば、市職員も市民も、法律でそう決まっているのだから、支払わなければならないし、滞納していたら督促しなければならないし、滞納処分もしなければならない。滞納している者が悪いのだから、また滞納しているのに督促も滞納処分もしなければ国からも市民からも文句を言われるから、仕方ない。火炎瓶を投げ込むなんて逆切れも甚だしい。
しかし、税金を何のためにを支払わなければならないのか。市民のために、目に見える、税金に見合うだけの行政サービスも受けていないのに、偉そうな態度をする職員の給料を支払うためにどうして税金を支払わなければならないのか。所得税や法人税なら、所得があるのだから、所得再分配のために税金を支払うのもまだ理解できようが、自分が汗水流して働いて買った不動産(固定資産)について、その固定資産の取得・維持に何ら市が協力してくれたわけでもないのに、どうして税金を支払わないといけないのか。人が通常お金を支払うのは財物の対価としてだ。税金も同じように行政サービスの対価と考えれば、このような理解も十分に成り立つだろう。ましてや、生活や資金繰りが苦しいからちょっとくらい待ってくれたっていいじゃないか。それを督促状を何回か送りつけてくるだけで、いきなり預金を差し押さえるというのはどういうことか。消費者金融だって、督促の内容証明郵便の次は裁判所からの支払督促や訴状が来るのであって、いきなり差押をしてくることはない。昔の取立てが厳しかったサラ金よりも悪質ではないか。
法律を所与の前提とすれば、これは税に対する誤った認識だが、そもそも論から考えれば、実にもっともな疑問である。

行政に必要なのは、そんなものは法律を勉強しろ、知らないやつが悪いという姿勢ではなく、税金とは何か、何に充てられるのか、どうして税金の徴収が必要なのか、をちゃんと市民が納得できるように説明することだ。それを言葉だけではなく、職員の態度・姿勢として示していくべきではないか。行政としての説明責任の不十分さ、市民との間のかけ違いが今回の悲劇の一因であることを肝に銘じるべきだろう。

投稿者:ゆかわat 18 :19 | ビジネス | コメント(0 )

死刑制度是か非か

昨夜は、依頼者の方々との暑気払いの楽しい一夜であった。
その際、話題が死刑制度論になった。
私自身は死刑制度反対だ。しかし、自分の最愛の身内を殺害された遺族の方に死刑反対と言えるのか、自分自身がそういう立場に立たされてもそういえるのか、そういう犯人は処罰されるべきではないか。一人からそう反論された。暑気払いの場も死刑制度存否で議論が沸いた。議論が錯綜混乱した場面もあった。

帰ってから考えた。この問題は、個人の感情の問題と、人の生き方の問題と、国の制度の問題とを区別して考えるべきだろう。
  個人の感情の問題としては、そんな犯人は許せない。当然死をもってその罪は償われるべきだ。もっとも、犯人が死刑で処刑されたからといって、殺害された者が帰ってくるわけではないが、少しは悔しさは癒される。
  人の生き方の問題としては、身内を殺害した者が罰を受けるのは人の命を奪ったからだ。人を殺害してはならない規範に反して人の命を奪ったからだ。だとすれば、そのような犯人の命をも人は奪うべきではない。死をもって死を償わせるのは怨嗟の連鎖を生むだけだ。戦争が戦争を生むように。それに、人はいずれ死ぬ。その原因がその人の寿命であったり、自然にあるときは死をやむを得ないと受け入れるのに、その原因が他人にあるときだけその他人を恨み命を奪うことに懸命になる。死を受け入れられないから、誰かの責任を追及することで死を受け入れることを避けようとしているだけではないか。
  そして、最後に、犯罪者をどのように処罰すべきかは、国の制度、政策の問題だ。国がその刑罰権を行使するのは社会秩序を維持するためだ。社会秩序を維持するために、その社会においてどのような刑罰を科するのが最も適切か。そのときに、個人の感情に依拠して死刑を選択するか、それとも、あるべき人の社会・倫理に依拠して他人の命を奪った者に対しても死刑を科さずに、生かして・社会から隔離して・更生させるか、それとも第三の観点を盛り込むかは、その国の国民が決めることだ。

このように死刑制度が根本的には国家の刑罰権行使に関わる法制度の問題であって、死刑制度是か非かは、国家制度としての論ずるべきであり、当事者・一国民として犯人に対してどういう感情を持つか、あるいは人として犯罪にどう向き合うかという次元の問題として論じるべきではない。国は死刑制度を維持するために、またマスコミは視聴率をアップさせるために、あえて議論を個人レベルの問題にひきつけがちだが、そのような議論は議論を錯綜させるものにしかすぎないことに注意すべきだ。


投稿者:ゆかわat 17 :37 | ビジネス | コメント(0 )

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