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2007 年11 月23 日

倫理研修

弁護士は10年に一度倫理研修を受講することを義務付けられた。私は今年がそれに当たるらしい。ところが、京都での倫理研修の日程があわなかったため、岡山弁護士会の倫理研修を受講してきた。そういえば、前回は、名古屋で受講した記憶がある。
 以前は、弁護士会には倫理規程があったが、今はそれを改め、職務基本規程となっている。倫理という名称は消えたが、内容は基本的に同じだ。

 倫理というのは、よく分からない。よく分からないというのは、自分は弁護士としてこうあるべきだ、こうありたいという議論と、これをしたら懲戒の対象になるからこれはしてはいけないという議論が常に錯綜しているからだ。
 今回の倫理研修でも、説例に対してA説とB説、積極説と消極説が紹介された。たとえば、着手金を持ってきたら答弁書を提出するという約束でいたら、第1回期日の前日までに着手金を持ってこなかったので電話でどうなっているのかを聞いたら着手金を支払う意思のない様なことを言われたときに、辞任できるか。どちらもあり得る、正解はないという。
 確かに自己研鑽であれば、どちらもあり得るから自分なりによく考えて行動しようですむ。しかし、綱紀懲戒を考えると、少なくともこれは間違いという「正解」を示してもらわないと弁護士業務がしづらい。「どちらもあり得る」では、そういう見解に基づいて懲戒を受けるおそれがあるという話になり、懲戒されたくなければ、自分としては納得できない結論に従わなければならなくなる。特に近時は、倫理が自分の弁護士の品位を高めようという自己倫理の保持のためではなく、元依頼者や相手方からの弁護過誤訴訟・懲戒請求、さらには業務妨害のための手段として使われる傾向がある。世知辛くなったものだ。
AKIRA191193



投稿者:ゆかわat 07 :28 | 日記 | コメント(1 )

2007 年11 月18 日

弁護士の仕事をしながら徒然思うこと(1)

 とても気丈で、いつも笑顔の人から、涙しながら今抱えている悩みをうち明けられるとき、こんなに気丈な人がこんなに悩んでいるなんて、と思う。でも、本当は、違う。悲しみや悩みに打ち負けないように、悲しみや悩みから自分を守るために、気丈で笑顔の自分を作っている。気丈で笑顔で何の悩みもなくって幸福な人などどこにもいない。逆に、教条主義に凝り固まっているように見える人も、同じだ。そうでもしないと、感情に流されて自分がぼろぼろになるのを、教条主義のよろいで守っている。

 不幸の連続と思うときがある。でも、人生は、悲しみの総量と喜びの総量がつりあってゼロサムでできている。だから、もし不幸が続いたら、近いうちに喜びが続く。逆に、喜びの絶頂にあるときはやがてやってくるだろう不幸に備えなければいけない。だから、本当は、平凡で、何もそれほど楽しいこともない人生が、苦しみや悲しみがなくて幸福なのだと思う。

 人を悲しませた分、人は優しくなれる。弱い人ほど、苦労に苦労を重ねた人ほど強くなれる。本当にすばらしい人は、その分悲しみや苦しみを経験したからだ。

 夢は追いかけているうちが夢だ。夢を手に入れて、夢が現実になったとたん、夢はとたんに色あせる。そして、人はこんなはずじゃなかった、と後悔する。だから、夢はいつまでも夢でなければならない。

 すべての物事が、こうやって表・裏あって、しかも表裏一体でできている。

 REI191029



投稿者:ゆかわat 00 :30 | 日記 | コメント(1 )

2007 年11 月11 日

ジャッジ・島の裁判官奮闘記

NHK土曜ドラマの「ジャッジ・島の裁判官奮闘記」を観た。
通常、テレビの裁判物は現実離れした設定になっている(だって、そうしないと、現実の通りの展開なら、全く面白みに欠けてテレビ番組にならないから)が、このシリーズは、現実の裁判のリアリティを持ちつつ、本当はこういう展開であって欲しいという法律家の理想を盛り込んでいるからとても興味深く観ている。

今日の内容は、島のリゾート開発反対訴訟だった。島民が開発賛成派、反対派に二分している中、リゾート開発差止訴訟が提起された。当初の請求原因は環境権に基づく差止訴訟であり、おそらくこのままでは請求棄却で終わったことだろう。ところが、裁判官は、記録の中から地下水の問題を提起して双方に投げかける。ここがまず最初の見事なところだ。

 ところが、案の定、原告の調査結果と被告の調査結果は本件開発の地下水に与える影響について正反対の内容となった。おそらく現実の裁判ではこのままで終わったろう。ところが、テレビでは、被告が、地下水に与える影響について別の調査結果があったことを明らかにする。以前であれば現実にはありえなかった展開だが、近時の、CSRの高まり、あるいは内部告発があったときの企業ダメージへの配慮を考えれば、これからはあり得ることかもしれない。

 そして、何よりも小憎いところが、あえて被告が自らに不利な調査結果を持ち出したことの真意を裁判官が汲み取って、双方に和解を勧試するところだ。開発反対派には、証拠評価・心証を開示するばかりか、仮に被告が敗訴になったとしても第二第三の開発があり得ることを示唆して、和解に持ち込むところがまたすばらしい。
 そして、裁判官自らが現地調査をし、文献・資料を調査して、和解案の骨子をとりまとめて双方に提示する。ここまで来るとちょっと現実離れしているかと思わないでもないが、最近の薬害肝炎訴訟の高裁の和解勧告を観ていると、そういうこともこれからはあり得るのかもしれない。

 開発派も開発反対派も、どちらも住民の利益を願ってただ方向が異なるだけなのに、現実には、賛成・反対で二分して妥協の余地のなくなるところを、島の裁判官は、見事に双方の意見を調整させていく。いつも訴訟の代理人として、あるいは調停官として事件を担当したときに、お互いに自分の意見・立場にこだわって紛争がこじれていくのを見てさびしい思いがしていた。あげた拳を相手に振り下ろすのではなく、その手を相手と握手できる手にできないかといつも思っていた。何とか双方がお互いの立場を理解し合い、共感しあいながら、紛争を解決できないものか。それを見事に島の裁判官がやってのけたところがとてもすばらしいと思った。これこそが理想なのだろう(甘いと言われるかもしれないが)。

 このような裁判官、弁護士が一人でも増えることこそが、本当の司法改革であり、市民のための司法なのだろうと思った。
191028



投稿者:ゆかわat 01 :27 | ビジネス | コメント(2 )

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