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2009 年6 月20 日

西松違法献金事件

西松建設献金事件は、西松建設が「何人も、本人の名義以外の名義又は匿名で、政治活動に関する寄附をしてはならない」(政治資金規正法22条の6)という規定に違反して寄付した者に当たるからその役員である前社長を起訴した(同法26条の2第4号)というのが公訴事実だ。法定刑は三年以下の禁錮又は五十万円以下の罰金である。

 日経新聞の記事によると。検察は、この献金は公共工事の談合で工事を受注できるよう小沢事務所から「天の声」を得る目的だったと指摘し、具体的に4件の工事をあげて小沢事務所の影響力で西松建設の共同企業体が受注に成功したと論告で指摘したという。
 
 論告は、証拠調の結果に基づく検察官の事実及び法律の適用について意見であるから、論告で指摘した事実について証明がなされたと考えているということである。そうすると、論告通りであれば、本件は単なる政治資金規正法ではなく、贈収賄事件であり、談合または入札妨害事件であるから、その罪名で起訴すべきである。逆に、その罪名で起訴できない、つまり立証できないというのであれば、そのような事実を論告で指摘するのは誤りである。こんなことは、司法研修所で教わるイロハである。立証できない事実を論告で指摘したら、二回試験は落第である。

 いや、落第どころか、この検察の姿勢は不当な政治介入である。検察は、ライブドア事件を契機に「市場検察」へと踏み出し、市場の番人の役割を担うことを宣言したが、いよいよ「政治検察」へと変身するのか。検察が大久保秘書ルートでいかなる冒頭陳述・論告をするのか、注目される。

投稿者:ゆかわat 14 :16 | ビジネス | コメント(0 )

2009 年6 月14 日

自治体の債権管理の現状とその課題〜公共政策学会

 ロースクール教授になってから少しは教授らしいこともしなければ、と思っていたところに、日本公共政策学会での討論者として出席するようにとの連絡を受けた。それで、今日は、龍谷大学で開催された日本公共政策学会の「自治体の債権管理の現状とその課題」というテーマセッションに出席した。
 債権管理条例をめぐる現状と課題がそのテーマだった。
 私の感じている自治体債権の現状と課題は以下の通りだ。

 自治体では地方税の滞納処分の例によることのできる債権であっても、手続の進め方が分からず有効に滞納処分を行うことができずに回収できなかったり、あるいは法定納期限が過ぎたのでいきなり滞納処分をしたところそれに不服の市民が滞納処分は信用にかかわるから滞納処分をする前に電話をするなり自宅訪問をしてくれと言ったところ、自治体職員がそんなことをしていたら財産隠しを誘発するおそれがあるし職員の負担が大変だといって応じなかったりしている現状がある。

 それ以外の自治体債権の滞納だけが問題ではない。滞納処分の例による債権もそれ以外の債権についても、自治体と市民との信頼関係がないから市民が支払を放置しているのが現状だ。どんな企業でも売上だけ計上して売掛金の回収をしない企業はないから、自治体でも債権回収部門をまず充実させることが重要だ。

 ところで、今日の報告を聞く限り、債権管理条例の最大の効用は、未収債権の放棄を容易にすることにあり(その意味で、債権管理条例ではなく債権放棄条例である。)、自治体の債権管理の実効性を高めるところにあるわけではないようだ。

 現在、税金をはじめとする多額の自治体債権が未収・滞納となっているが、その回収の実効性を高める第一の方策は、債権管理体制を自治体が自庁内に構築することだ。セッション終了後に聞いたところでは、自治体は債権回収をするためにサービサーに安易に頼る傾向があるらしいが、はたしてそれで良いのか。
(続く)

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投稿者:ゆかわat 22 :53 | ビジネス | コメント(1 )

2009 年6 月3 日

ライブドア事件控訴審判決

 判例時報4月1日号(2030号127頁)にライブドア事件控訴審判決が載っていた。
 気になったのは、検察官が公訴事実として「投資事業組合が独立した事業主体ではなく、ライブドアファイナンスのダミーファンドである」と主張していたことである。「ダミー」というのは日常用語としてはよく使うが、分かったような分からないような言葉である。それを法廷で立証命題として主張しているとは思わなかった。曖昧模糊として分かったような言葉で煙にまこうとしたのか。まさしくこの事件の本質を示している。弁護人が「ダミーの意味を明らかにされたい」と釈明を求めたのは至極もっともなことである。それに対して、検察官は「名義上の存在にすぎない」という意味であると釈明した。ところが、判決は、「脱法目的で組成された組合であり、当該取引においてその存在を否定すべきである」と判示した。「名義上の存在」というのは要するに形だけだという意味だ。それに対して、「脱法目的で組成された組合であり、当該取引においてその存在を否定すべきである」というのは、実体はあるが、目的に照らしてその取引では存在を否定するということであるから、形だけだというのとは明らかに異なる。ところが、控訴審判決は、検察官のダミー性を肯定したものだという。論理性のかけらもない。まさしく「ダミー」たる所以である。

 さらに、判決について言えば、会計処理上の潜脱目的を達成するために組成されたという理由でどうして組合の存在を否定することができるのか。税法上の否認や民事上の法人格の否認の法理はあるが、組合の組成目的だけを理由とする連結基準の回避の法理があるのか。弁護人が罪刑法定主義違反だと非難するのももっともだ。しかし、それに対する納得できる理由は何ら示されていない。

 もっとも、これは最初から有罪ありきの国策捜査、国策判決であるから、物言えば唇さびしである。これで裁判員裁判ができるのか。しかし、職業裁判官の裁判もこんな程度であるから、国民も「裁判員になって自分が人を裁けるのか」などと深刻に悩む必要もないか。

投稿者:ゆかわat 20 :56 | ビジネス | コメント(1 )

2009 年6 月2 日

法科大学院定員2年で1000人減

 ロースクールで行政法を教えることになった身としてはショッキングな記事だ。
 しかし、これは法科大学院協会が3月末までの回答期限で、定員を見直す予定があるかを尋ねるアンケートを実施した結果を発表したもので、それと時期をあわせて中央教育審議会の法科大学院特別委員会が4月に抜本的な定員削減を求める報告書を発表している。ロースクール定員削減を演出する出来レースとしか思えない。

 定員削減の背景は新司法試験合格率の低さにある。しかし、よく分からない。
「定員割れ」したから大学が自主的な判断で定員を削減するのは理解できる。しかし、新司法試験合格率の低さを改善するために国が「定員削減」を求めるのはおかしくはないか。ましてや、専門家(どんな人が「専門家」なのか分からないが)が「大学院の数が多すぎることが問題。合格率が低い学校は助成金を減らしたり、統廃合を検討したりすることも必要になるだろう」と話していると日経新聞の記事には書かれているが、これに至っては全く理解できない。
 合格率が低ければそのロースクールに入学する学生がいなくなるだけで、学生がいなくなればロースクールは閉鎖するか統廃合するしかない。それは経済の法則だろう。しかし、それを国が助成金を減らしたりして操作するというのはどういうことか。結局、それは優秀な学生を集められるネームバリューのある大学のおごりでしかないのではないか。たとえ合格率が低かろうが、勉学の場を求めてそこに来る学生・大学を助成するのが国の役割ではないか。

 そもそもロースクールの役割は新司法試験合格者を輩出することだけなのか。それなら、それこそ法科大学院というのは司法試験予備校ではないか。司法試験合格率の高い低いでロースクールの存在価値を決めるのはやめるべきだ。
 むしろ、ロースクール卒業生に新たな資格を与えればよいではないか。一番求められるのが、国会議員・地方議会議員の被選挙資格とするのはどうか。国会議員は法律を作る。地方議会議員は条例を作る。そのような職責に法解釈のイロハも分かっていない人間が就くことがおかしい。
 だから、「認可」の基準・要件も理解しないまま、日本郵政社長の続投に反対することが「この国の正義だ」という発言をする大臣も出てくる。議員資格にロースクール卒業を必要とすれば、八方丸く収まるのではないだろうか。

投稿者:ゆかわat 15 :06 | ビジネス | コメント(4 )

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