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2008 年4 月30 日

山腹からのセラ寺

ラサの街は富士山とほぼ同じくらいの海抜3700mの高地にあります。高度に順化してないために、ちょっと激しく動いただけで、息切れがしてしまいます。写真は裏山から見たセラ寺の全貌です。セラ寺の全貌



投稿者:ぴるぜんat 21 :27 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月29 日

セラ寺の裏山

問答修行が行われるという中庭の木立を抜けると、この世と彼の世の境界でもある賽の河原の景色が広がっていました。石塔が立ち並び、岩には仏様や鬼の絵が描かれています。このセラ寺の裏山のセラ・ウツェ山には鳥葬場があるとのことですが、ここから先は彼の世ということなのでしょうか。山頂に向かって、急な斜面を登ってみました。セラ寺の裏山



投稿者:ぴるぜんat 23 :00 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月27 日

セラ寺

河口慧海や多田等観がチベット仏教を学んだ、セラ・ウツェ山の麓に建つセラ寺の境内です。境内にある岩には様々な仏様の像が描かれていました。また、このセラ寺の僧侶には独特なジェスチャーで問答をする、「問答修行」というのが写真右の木立の中で行われており、自由に見学できるということでした。セラ寺境内岩仏画

セラ寺境内



投稿者:ぴるぜんat 19 :19 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月22 日

「新たにセラ寺の僧侶400人が拘束か」の報道

「法輪」というのはお釈迦様が説いた仏教の教義を示すもので、教義(法輪)を他人に伝えることを「転法輪」と言います。インドのサルナート(鹿野苑)で、お釈迦様が悟りを開いたのちに初めて説法されたのを「初転法輪」と言い、その初転法輪寺の脇にはタルチョが掲げられたチベット寺院がありました。初転法輪寺のご本尊は釈迦牟尼仏であり、ラサの大昭寺も釈迦堂にご本尊の釈迦牟尼仏をお祀りしてありました。
「ラジオ自由アジア」は、「自治区ラサ市郊外にあるチベット仏教寺院セラ寺に18日未明、武装警官が入り、400人余りの僧侶を拘束した。ラサで大規模な暴動が起きた数日前、セラ寺では僧侶らが反政府抗議デモを行ったと伝えられ、取り締まり対象になっていた。」と報じています。そして、「新たにセラ寺の僧侶400人が拘束か」とも伝えています。
「四川省では、チベット仏教の僧侶に対して、寺院を出て実家に戻る事を強制し、僧坊や仏殿に南京錠を掛けて、北京五輪が終わるまで寺院へ帰ることを禁止した。」とか、「チベット仏教の僧侶に、ダライ・ラマを崇拝しているかどうかを尋問して、崇拝していないと答えなかった者を拘束した。」との報道もなされています。
河口慧海や多田等観がラサのセラ寺でチベット仏教を学び、その仏典を日本にもたらしたのです。善光寺の若麻績信昭寺務総長だけが意思表示をしましたが、他の仏教寺院や僧職からは何のコメントも発せられてきません。
(サルナートの初転法輪寺で、ご本尊の釈迦牟尼仏の前で日本の僧侶が説法をされている写真)
初転法輪寺での説法


投稿者:ぴるぜんat 22 :24 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月21 日

4月26日の聖火リレー出発式 

中国政府は「内政問題であり、口を挟むな。」と突っぱねていますが、世界各地で、北京オリンピックの聖火リレーに対する抗議行動が展開されています。善光寺では、「同じ仏教者としてチベット暴動で僧侶が弾圧されている」ことを理由に、聖火リレーの出発式に境内を提供することを取り止める決断をしました。「聖火リレーや北京五輪に反対ということではなく、チベットの人権問題が解決していないという認識に立っての抗議であり、中国政府は聖火リレーよりも人権問題の改善という本来のやるべきことをやってほしい。」という強い意思を表明しています。
「無宗派の寺だからできた。」と、羨望をまじえて賛同する僧職者がいる一方で、「出発地辞退という対応は非常に残念。聖火をめぐる状況は大変かもしれないが、善光寺のような存在が動揺せず、どっしりと構え、静かにやりとげることで事態を良い方向に変えることができたかもしれない」とか、「政治とスポーツは分離すべきだ。今回の状況の中では、むしろ善光寺が引き受けて“世界の善光寺”になる最大の機会だと思っていた。」との意見もあります。だからと言って、本堂の回廊に落書きをするという行為は許されません。
中国政府を非難する報道機関や、北京五輪の開会式不参加を表明・検討している欧州各国政府に対する在欧中国人の抗議行動は、表現や行動の自由を謳う民主主義国家では保障された権利ですが、中国湖北省武漢でのフランス系スーパーマーケットの入り口を数十台のダンプカーで封鎖するのは違うと思います。ま、オリンピック自体がコマーシャリズムに染まってしまっているのに、聖火のリレーが世界中を回る必要があるのかも疑問です。
写真は、サルナートの初転法輪寺のご本尊(釈迦牟尼仏)です。
初転法輪寺の本尊(釈迦牟尼仏)



投稿者:ぴるぜんat 20 :06 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月16 日

セラ寺

大昭寺から真北に6km程の所にあるセラ・ウツェ山麓に建っているこのセラ寺と、先のデプン寺と、ラサの東へ40kmの所にあるガンデン寺をゲルク派三大寺院と呼んでいます。デプン寺より3年後の1419年に創建され、多くの高僧を輩出してきたゲルク派の学問寺です。
1897年(明治30年)に、日本に伝えられた漢訳の経文ではなく、インドの仏典の原形を留めているチベット語訳の経典を学ぶ為に神戸港を旅立ち、インドからネパールを経て、4年をかけて鎖国時代のラサに潜入した河口慧海がチベット仏教を学んだのがこのセラ寺です。
写真はセラ寺のチェ・タツァン(学堂)です。ダライ・ラマの寝所でもあったそうです。
セラ寺



投稿者:ぴるぜんat 22 :57 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月14 日

デプン寺

ツォクチェン(大集会堂)を中心にガンデン・ボタン(ダライラマ5世の寝殿と経堂)と、4棟のタツァン(学堂)と、50棟以上の、迷路のように斜面に沿って建てられた僧坊で構成されてるそうです。大集会堂前広場


僧坊



投稿者:ぴるぜんat 21 :06 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月13 日

デプン寺

 ガンポ・ウツェ山の山裾に沿って、20万uの敷地の中に建物が点在しています。ダライラマ5世がチベットの元首としてポタラ宮に移るまではダライラマの寺院であり、その後の歴代のダライラマもこのデプン寺で修行したそうです。
 『1959年のチベット侵攻以前にはこの寺には15000人もの修行僧があった。侵攻や文化大革命の中で伽藍は破壊され、僧侶たちも数多く殺害、拘束、追放された。 僧のほとんどは南インドへ亡命して活動を続けており、カルナータカ州のチベット人居留地の寺院に5,000人を越える修行僧を持つ。現在一部が修復されており細々と宗教活動を再開しているが、中国政府の弾圧により、現在チベットに住むこの寺の僧は数百人に満たない。そのためほとんど巡礼地や観光地としての役割しか果たしておらず、かつての様な修行の場は取り戻せていない。(ja.wikipedia.org/wiki/デプン寺)』のだそうです。
 急峻な山裾に沿って建てられており、境内のいたるところには破壊の後が生々しく残っていて、修復が進まないままに放置されていました。
デプン寺からラサ市内遠望


デプン寺破壊跡



投稿者:ぴるぜんat 09 :38 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月11 日

デプン寺の境内

「お経を摺ってますねん。」と、境内の隅で、経文や仏画の印刷をしていました。観光用に販売するための物ではないとも言っていました。「見とってもええけど、話しかけんといてな。順番を間違えたらあかんから。」と、幅が7cm程で長さが60cm程の生成りの細長い紙の表裏に、チベット文字の経文を、木版に墨を塗って、慣れた手つきでバレンを使って摺り上げていました。経文の印刷屋



投稿者:ぴるぜんat 22 :27 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月10 日

ヤク

で、他にも観光用に役立っていました。「ヤクに乗って、記念写真を撮る。」という商売用に酷使されていました。
日本でも、このヤクの尻尾の毛を甲冑や槍につける装飾品として珍重していたそうです。江戸時代の鎖国の時でも、清国を経由して輸入していたそうです。また、幕末には薩摩藩が黒毛、長州藩が白毛、土佐藩が赤毛と指揮官の軍帽に使われたのも、ヤクの毛だったのだそうです。
観光用ヤク



投稿者:ぴるぜんat 08 :36 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月8 日

ヤク

デプン寺のツォクチェン(大集会堂)前の広場に着飾ったヤクがいました。「乳からバターを作ってバター茶やバター灯明にできるし、毛で衣服やテントが作れるし、糞は燃料になる。農耕やら荷役にも使えて、最後は食料にもなるのがヤクですねん。ほんまにヤクはヤクにたつ牛ですわ。」と、坊さんが言っていました。
どんな食堂にでも「モモ」という蒸し餃子のようなメニューがあるのですが、「中のひき肉はヤクの肉ですわ。美味しいやろ。」と、食堂のおばちゃんが言っていました。ハンバーグというかメンチカツのような物もあるのですが、やはりヤクの肉でした。ちなみに「ヤク」というのは牡のことで、牝のヤクは「ビ」と言うのだそうです。ヤク(デプン寺)



投稿者:ぴるぜんat 08 :12 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月6 日

デプン寺

寺院を取り囲む山地の大きな岩には、開祖のツォンカパと二人の弟子(ダライラマ1世とパンチェンラマ1世の肖像画が極彩色で描かれています。岩だらけの山腹に壮大な伽藍が広がるデプン寺にも文化大革命の傷跡が生々しく残っており、営々と修復作業が続けられていました。
3月10日の夕方、デプン寺の僧侶約300人が大昭寺の周囲を廻る八角街(バルコル)で平和デモ行進をするためにお寺を出た(バルコルまで東へ10km程)のですが、ラサ市内に入る途中で多数の武装警察に阻まれて、指導者の僧侶2〜3人が逮捕され、現在はデプン寺の周辺にも多数の武装警察官が配備されていて人の出入りが禁止されているという情報がネットで流れていますが・・・デプン寺の岩絵



投稿者:ぴるぜんat 00 :13 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月5 日

デプン寺

チベット仏教には、ゲルク派、カギュー派、サキャ派、ニンマ派 の4大宗派があり、中でもダライ・ラマを頂点にいただくゲルク派がチベット最大の宗派で、チベット仏教寺院の多くはゲルク派の寺院なのだそうです。このデプン寺はゲルク派最大規模の寺院で、ゲルク派の開祖であるツォンカバが弟子に命じて1416年に建てられたのだそうです。20万uの敷地を有し、最盛期には1万人の僧侶がいたデプン寺の中心にあるのがこのツォクチェン(大集会堂)です。183本の柱に支えられた3階建ての建物の屋上にも、大昭寺の屋上にあったと同じ、黄金の臥鹿と大きな法輪が輝いていました。デプン寺大集会堂



投稿者:ぴるぜんat 08 :08 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月4 日

アニ・ツァングン寺

ご本尊は十一面千手千顔観音です。女性の館だけあって細かいところにまで手入れが行き届いており、建物のオレンジ色と鉢植えの花のコントラストがとても綺麗な尼僧院です。それにも増して、彼女たちの笑顔が印象に残っています。
3月10日にラサで発生した抗議行動以後はチベット自治区では国内外の観光客の受け入れを停止しており、大昭寺は武装警察に包囲・封鎖されているようですし、気懸かりです。アニ・ツァングン寺 2



投稿者:ぴるぜんat 13 :10 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月3 日

アニ・ツァングン寺

大昭寺の裏手にあった小さな尼寺です。路地を歩いていると、咲き誇っている沢山の鉢植えの花が目につきました。門の外から覗いていますと、小さな坊主頭が、「何処から来はったんですか?」と手招きをしています。「日本からですわ」と言いますと、「お茶でも飲んでってくださいな」と。子供かなと思っていましたが、よくよく見ると女の子です。「尼寺ですねん」と、本堂の向かいの建物に招かれてバター茶をご馳走になりました。明らかに欧米からと思しき尼僧もいました。本堂と僧坊の間の小さな広場にはタルポチェの柱が立っていました。
「綺麗な花をようけ育ててはりますやんか。ダリヤですか?」、「マリーゴールドです。チベット原産ですよ。」と。「マリーゴールドの原産地はメキシコとちゃいますのん。」、「チベットが原産です。」、「チベット語で何て言いますのん?」、「○△×◇」と。アニ・ツァングン寺



投稿者:ぴるぜんat 08 :12 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月2 日

大昭寺の中庭で・・・

大昭寺の中庭には、本堂に向かって熱心にお経を唱えている信者が大勢いました。チベット族の人達は、その中でも特に坊さん達は漢民族が大嫌いです。その理由は、文化大革命の名の下に組織された「紅衛兵」が、旧思想・旧文化・旧風俗・旧習慣の「四旧打破」を叫んで、貴重な文化財や寺院を見境無く破壊し、無理やりに還俗させられたという経緯があるからです。今でも破壊された痕跡が生々しく残っており、修復の作業が営々と続けられています。反面、日本人は同じ仏教徒だということでもあるのでしょうか、何処に行っても、チベット族の誰に会っても非常にフレンドリーに接してくれました。大昭寺の中庭



投稿者:ぴるぜんat 08 :07 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

2008 年4 月1 日

大昭寺(ジョカン)

大昭寺の中庭に面した回廊の壁際で、お経を唱えている二人連れがいました。「この子は孫で、これからカンリンポチェに巡礼に行きますねん。」ということでした。「カンリンポチェに納めてきたるさかい、住所と名前を書きなはれ。」と。「お布施をさせてくださいな。」と10元札をわたすと、「乞食ちゃうねんから、気ぃつかわんといて。」と、住所と名前を書いた紙をもって写真に納まってくれました。
大昭寺二人連れ



投稿者:ぴるぜんat 08 :27 | 日記 | コメント(0 ) | トラックバック(0 )

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